第16回朝日杯将棋オープン戦準決勝〜自宅観戦で思うこと〜
遠く有楽町へ祈る
2023年2月23日。第16回朝日杯将棋オープン戦準決勝・決勝が東京の有楽町朝日ホールで行われた。
豊島先生にとって実に8年ぶりの有楽町対局である。私は千田七段が優勝された第13回の観戦に訪れていて、一昨年、昨年と無観客開催だったのでぜひ3年ぶりに有楽町マリオンに佇んでいたかったが、座席を高望みし過ぎたこともあり、抽選に外れてしまった。
藤井竜王が絡むイベントは年々競争が加熱している。
既に顔見知りなのか女性グループが仲良さそうに話している様子をあちこちのイベント会場でお見かけする。とても微笑ましく将棋界にとって心強い光景ではあるが、こうなってくると参加するだけでも至難の技だと改めて感じる。
ただ今年度はこれまで他のイベントにたくさん当選して参加させて頂いたので、その事に感謝しつつ、北陸から東京の空に向かって豊島先生のご健闘を祈る事にした。
振り駒の神様は…
振り駒で準決勝は藤井竜王と糸谷八段の先手が決まった。
豊島先生は対藤井戦に関して、これまで後手番を引くことが多い印象がある。
数えただけでもタイトル戦では第62期王位戦、第6期叡王戦、第34期竜王戦。直近だと勝てばベスト4で来期シードが決定する第48期棋王戦本戦の準々決勝やA級順位戦も後手番だった。
全棋士の平均で先手勝率は約52%と言われているが、それは対局棋士間のレーティングの差を考慮していない単純計算だ。
例えば実力伯仲するトップ集団の今期A級順位戦を例に挙げよう。
8回戦まで修了して全40局のうち先手番の勝利は24局で、勝率6割である。
観戦していても、むしろこの数値のほうが現実味を感じる。実力差のない棋士同士では先手番が評価値60%でスタートするようなものだと思う。
ちなみにA級順位戦は9回戦あるので10人中5人は後手番が5局となるのだが、振り駒ではなくトランプを使用して組み合わせと先後を決めるのが伝統だという。
抽選会の映像を見たが、この方法なら公正なくじ引きと同じなので文字通り運も実力のうち、ではあるが、一番勝負においてはやっぱり先手番が欲しいところだ。
ABEMA中継スタート
この日の大盤解説会の様子はYouTube朝日新聞囲碁将棋TVでライブ配信された。こちらもA席は13倍の倍率だったそうなので涙を飲んだかたも多かっただろう。見逃したかたはこちらからアーカイブで楽しめる。
私は対局の様子をABEMA生中継と携帯中継の2窓で見守った。準決勝は2局同時に行われるため、リビングの大型テレビで観ているとはいえ画面が2分割なうえ、対局者の様子はワイプの小さな画面にしか映し出されない。これだと私の得意技である五感を研ぎ澄ます形勢判断が難しいので、やむなく評価値を見ながら観戦することにした。
ちなみに名古屋対局では評価値無しの対局場観戦を心から楽しめて、とても良い経験だった。
飛車を狙う果敢な踏み込み
戦型は予想通り先手藤井竜王得意の角換わり腰掛け銀となり、40分の持ち時間はあっという間に過ぎていった。100手を過ぎてもまだ互角が続いている。1ミリも譲らない激しい勝負にこちらも呼吸が浅くなる。
局面が動いたのは108手目だった。豊島先生が飛車取りに敵陣に角を放つ。評価値がガクッと藤井竜王に傾く。そしてこの手で双方が1分将棋に突入した。
評価値は棋力の低い人間にとってありがたいとはいえ、本当にこういう時に夢を台無しにする。あっと驚く一手だ!と感動しても、冷淡に数値を割り出してくるのでなんとも無味乾燥なのだ。
あぁ、豊島先生らしい果敢な攻めの一手だけれど指していくとだんだん悪くなるのかと落胆していたら、藤井竜王も1分将棋。普段は脳内にPCを搭載しているかのようにAIの最善手ばかりを指してくる藤井竜王が、推奨外の手を指し始めたのだ。
その隙を豊島先生は見逃さなかった。一気に攻めかかり、形勢が豊島先生に傾き始めた。こうなったら止まらない。加速度的に形勢が豊島先生に傾き始め、ついに携帯中継の評価値は100%を示した。これは藤井玉に詰みがあるという意味を表す。
同時にABEMA中継のAIも99%後手勝利を示した。
複数パターンの詰み
後から放送を振り返って再生し詳細を書いたが、実はこのあたりの記憶がほぼ飛んでしまっていた。
藤井キラー・ラスボスと呼ばれて6連勝、しかし追い上げてきた藤井竜王に現在は7連敗中だった豊島先生がついに勝利される。しかも先手24連勝中と敵無しの怪物を後手番で鮮やかに討ち取るとは。感極まって、涙ぐんでしまったのだ。
しかし、涙するのは早かった。あまりにも劇的な幕切れが待っていた。
藤井玉にはこの局面に複数の詰み筋が発生していた。豊島先生の候補手は馬でも、飛車でもどちらも正解だった。
ただ、豊島先生が選んだ馬のほうが運命を分けた。
馬を選んだ場合の正着は、ABEMA解説者の高見七段もAIの推奨手表示をご覧になってから好手ですね、と気づくほどの飛車捨ての妙手。しかしそれ以外を指すと全て奈落の底だった。まるで時限爆弾を解除できるたった一本のコードを、爆発寸前で複雑に絡みあった中から探すかのような戦慄の局面だ。
豊島先生は馬引きで藤井玉に王手をかけた瞬間、実際にそれは正着だったものの、咄嗟にもう一つの飛車の詰み筋に気づき、馬ではなく盤上の8四の飛車を回るべきだった、詰みを逃してしまったのだと後悔されたらしい。
その時の事を大盤解説会場へお見えになった際に解説の菅井先生に話しておられた。凄まじい緊迫の1分間で、見えづらい妙手に気づかなかった事は、誰にも咎められる筋合いは無い。
ご自身に厳しい豊島先生は酷かったと自嘲しておられたが、藤井竜王を詰みまで追い込んだ先生の見事な指し回しは圧巻だった。それでもなお、敗れたという事実から反省の弁を口にされる姿勢には、豊島先生の良い将棋をお見せしたいという強い信念を感じた。
藤井竜王攻略への糸口
約2時間半165手の熱戦で、終局後はすっかりお昼を過ぎていた。呆然とはしていたものの、何か食べなくてはと買い物に出た時、ふと目に留まって景気付けにイチゴのケーキを買った。
豊島先生は素晴らしかった。観戦している誰もが心を動かされる、果敢で緻密な豊島将棋はますます冴えて進化している。
結果は残念だったが、これまでの先生の努力が少しずつ実を結ぼうとしている予兆を確かに感じ取ることができた。
後日、朝日新聞文化部の村瀬記者が豊島先生の戦いぶりを讃え、次に繋がるヒントを手にしたのではと記事にコメントした事をツイートしておられた。
ベテラン将棋記者であり、棋士の勝負哲学についての本も出版されている村瀬記者の率直な言葉はとても心強く、自分と同じ気持ちでおられる事が本当に嬉しかった。
これまでにも名勝負を繰り広げてきた藤井竜王と豊島先生のことだ。このままワンサイドゲームで終わるはずはない。
藤井竜王の独走を許すまじと、豊島先生はあの静かな面持ちで虎視眈々とトップランナーを追走しておられるに違いない。
小さく遠ざかっていく背中を徐々に視界に捕らえ、きっとすぐそこまで、息遣いが聞こえて来るまでの距離に迫っているはずだ。
そして、先生方が目指すゴール地点はまだずっと先にある。次のお二人の対決が早く観たい。