連載小説「心の雛・続」 最終話 妖精たち
雛はさっき言っていた。
『いつもいただいている可愛い服を、もう買わなくて大丈夫です』
いつか別れが来ると知っていた。出会った当初からその覚悟はできていた……と思っていたが、実際は全然できていなかった。秋だからだろうか? 季節の移り変わりのせい……そう思おうと無理に心を奮い立たせている僕は、やっぱりどこかで雛との別れを惜しんでいるのかもしれなかった。
妖精たち三人と雛から紙を渡された。
「開けてください、心先生」
穏やかでまっすぐな雛の声。言われたとおりに僕は四つに折りたたまれた紙を広げてみた。
それは手紙だった。
紙に載せた短いことば一文字ずつ、繰り返し繰り返し眺めた。
ふと思い出す。カレンダーのある壁の下の方に、数年前に大判の「ひらがなひょう」を貼ったことを。
カタカナや漢字を覚えるつもりではない、でもひらがなは読めるようになりたいという雛の希望だった。絵本は毎晩読むのだけれど、少しずつ……まるで幼子が成長過程を辿るかのように、雛はひらがなを覚えていった。
ことばの持つ力。
手にした文字たちが滲んだ。次から次へといろんな感情が溢れ出し、雛たちの優しさを滲ませた。つよくなって、その言葉は僕にとってものすごく大切な言葉だった。師匠から最後にいただいた言葉だったから。
「先生…………」
僕の涙が雛の頭に滴り落ち、彼女の頭を濡らした。
「ありが……ご……ます」
どうにか絞り出した僕の声は震えていてちゃんと伝わったかどうか分からない。それでも、雛だけでなく他の妖精たちも側に寄ってきて、物珍しく「人間の涙」を触ったり手ですくったりして初体験を味わっていた。
「人間の涙って、固まんないんだな」
「これ……あったかい……」
「すげぇ、ぼよんぼよんしてるぜ!」
人は誰しも過去がある。過去の中にはとても美しい思い出や楽しい記憶、一方で忘れたいくらい辛く悲しいものもある。いろんなものが人それぞれの思い出の箱に入りながら日常が繰り返されていく。
生まれた時の環境で難しいこともたくさんあった僕だけど、自分にしかできないことを教えていただきながら、師匠や優しい人たちに出会って「今」ここに僕は生きている。
雛を助けたことも大事な出来事だ。
前にニュースで見た「痛ましい事件」。目の前で困っている人に声をかけたことで傷を負ってしまった事件。このようなことがあると人はこう思うだろう。
不必要に人に関わるべきではない、と。
もちろん人それぞれに価値観が違うのだからそう思っても仕方がないのかもしれない。
でも僕は。
目の前で困っている誰かがいたら何かをせずにはいられない。
雛を助けたように。この先も迷わずそうするだろう。
師匠なら反撃されないように武装して声を掛けるかもしれない。それならナイフが飛んでこようと刺されなくて済む。言葉の反撃なら心に盾を設ければ安心だ。
本当に手紙に書いてあるとおり。
強くならないといけない。
強くなって、R様のような患者様と出会ったとして、僕は整えることを諦めない。
「人間である僕に、このような温かい手紙を贈っていただきありがとうございます」
「人間って言っても、いろんな人間がいるんだな」
ニヤリと笑いながらグリンが言った。
「いつも、お花、ありがとうございます! 何かわたしにできること、ありますか?」
「スーマ! そりゃ完全に胃袋を掴まれているだけだぞ!」
「えー? でも、お兄ちゃんだって、いつもうまいうまいって、飲んでるよ?」
「そうだけど、これはおっさんができる償いのひとつだろ!」
微笑むスーマにラーフ(兄と言ってたので家族なのだろう)が指摘している。こうやって僕が小さい頃住んでいた孤児院でも、皆がそれぞれいろんなことを話していたな。
「心先生? スーマは見ての通り全然先生を嫌ってないし、グリンやラーフだって心先生のことをめっちゃ憎い〜って思っているわけじゃないんだよ!」
僕の握っていた拳を叩きながら雛が言う。
分厚い専門書片手に試しに植え始めたハーブたちだったが、このような形で妖精の食糧に繋がるとは夢にも思わなかった。
僕が思い出のプリンを大切にしているように、彼らもこの裏庭を大切にしてほしい。
「はい。これからも、僕にできる範囲でハーブをたくさん育てますね」
目尻に溜まった涙を拭きながら僕は笑って言った。
雛が、ぱぁっと花が開いたように笑顔になった。
冬が来て、霜がおり、生命は動きを緩慢にする。
ゆるりゆるりと静けさを味わいながら、そうして月日は色鮮やかな季節へと巡っていく。
春。
まだかまだかと待ち望んでいたふっくりとした蕾たちが、一斉に芽吹き始める。自然豊かな土地に、華やぐ色が満たされる。
私、叶とわ子は久しぶりに森の奥にやって来た。
もう二度とここへは来るまいと己を律してきたが何やら急に会いたくなってしまい、秘書に頼んではるばる都会からここまでやって来た。さて、どんな顔をして会うべきか。
車道から奥野心の病院までは若干距離があった。昨日少し雨でも降ったのか、それとも森だから朝露に濡れているだけか、パンプスがたちまち土にまみれてしまった。ヒールのないタイプの靴にしておいて良かったと思い、それにしても私にはこんな大自然では暮らしていけないと再度認識した。
「会うのは数年ぶりってところかしらね……」
私は過去に大罪を犯した。妖精の力を欲しすぎて、我を忘れて奥野の飼っている妖精を捕まえようとした。捕まえそこねて奥野自身に怪我を負わせた。それも、致命傷ほどの深いものを……。
ぶるりと思い出して首を横に振る。
そこから奥野と話し合い、心の奥底をさらけだし、怒鳴り、号泣し、本当に恐ろしいほどの汚物をぶちまけて、意外にもすっきり整えられて浮上した。その間、奥野と言えばずっと同じ調子で対応するのだから……若造のくせに。一回り以上歳を重ねた私としては少々会うには気が重い相手ではあった。
いけないいけない。奥野は競争心を向ける相手ではないはずだ。
ピンポンとチャイムを鳴らしたが反応はなかった。
今日は休診日のはずだった。多忙の毎日、ついアポ無しでここにはいつも来院してしまう。
でも本当はアポを取ることを控えていると言ってもいい。
私が奥野……ひいては妖精の雛と会っているような証拠は、埃一つほども残してはならないと思っているからだ。
「さすがに休診日だもの……買い出しにでも行ってるかもしれないわね……」
妖精を狩るという方法を廃止し、同時並行で人類の心身に効果的な薬となるものを見つけていくことは困難の極みだった。そう数年でどうにかなる話ではなかった。私が生きているうちに希望の光が見えればいいけれど……。まったくもってため息しか出ない。
「あぁ、もう。奥野! ……手土産が悪くなっちゃうわ」
胸の前で腕を組んで歯ぎしりした。さっさと諦めて戻って仕事でもしようと玄関のポーチを一歩降りると、何やら奥の茂った場所から声が聴こえた。
「……何?」
植物だらけのところには虫がいる。私は蜘蛛や跳虫が苦手だ。だがしかし、好奇心は人一倍強い性格……ということで、恐る恐る垣根のような草のそびえ立つところに近づいて行った。
ガサリ。
植物の壁の一箇所に人が一人通れるほどの隙間があり、そこから奥を見渡すことができた。奥にはこじんまりとした庭があり、庭の遠くの方には色とりどりの花たちがひしめきあって咲いていた。
嘘でしょ……⁉
目を丸くしてその光景を凝視した。
庭には、まず麦わら帽子を被り白い短袖シャツを着た奥野が軍手をはいて立っており、その向こうには蝶がたくさん舞っていた。地面にいる蝶もいる。雛もいるのかと、よくよくよくよく目を凝らすと、その蝶と思っていたものが全部妖精なのだと理解した。
「嘘でしょ……!!!!!!」
握っていた手から土産の袋が離れ、私の発した声と荷が地面に落ちた音で、庭内は騒然となった。奥野がくるりとこちらを向き、少し驚いた顔をした。
この男は本当に感情がよく読めない。
庭にいた妖精たちが蜘蛛の子散らすように一斉に飛び散り、ワァーーーーっと空を舞ったかと思うと全員が奥野の背中にくっついて隠れた。
飛べない雛だけが奥野の肩に乗り、少し驚いた顔をして私を見ていた。
静寂。
私は先ほどから驚きっぱなしだった。地に落ちた土産などどうでもいい。奥野は私の方を向きながら、一度大きく深呼吸をした。それは私には馴染みある行為だった。
なぜ馴染みがあるのか。
それは、私も奥野と同じく、触れた相手の「心」や「感情」を知ることができる性質を持った人間だからだ。
なぜ奥野は倒れない。
私にはそれが本当に不思議だった。
雑多な人間と触れ合った時、多ければ多いほどたくさんの感情が私の中に流れ込んでくる。これはまさに暴力に等しい。抗うことができない私に感情だけがぶち込まれ、もみくちゃにされ、逆らえないほど打ちのめされる。
深呼吸するのは自分を落ち着かせる手段のひとつ。心を無にして呼吸をすればどうにか持ちこたえることが多い。
なぜ奥野は今、倒れないのか。
あれほどの妖精が背に触れているというのに。
「お久しぶりですね、叶とわ子様。何だか驚いた表情をされていますね」
手荒な治療で整えられた昔と同じく、微笑んで奥野は挨拶をした。
「春、花が咲く頃になると、あるものが出てきます。それは僕にとってはちょっと出てきては困るものです。何だか分かる方、いらっしゃいますか?」
はーい、はーいと手を上げて目の前の妖精たちが答えようと頑張っている。なんだろう、この状況は。僕は医者であって学校の先生ではなかったはずだ。
首を傾げながらグリンを指名した。彼もニヤリと笑いながら挙手をしていたからだ。
「虫!!!」
「あぁ、虫も出てきますね。ですが、申し訳ありませんが、虫が出てくることは僕は困りません。虫は花の受粉に必要な存在で……」
はーい、はーいと話を遮って妖精たちが挙手をする。心を切り替えて、ラーフを指名した。
「雑草!!!」
「あたりです」
なぞなぞ風にして僕は妖精たちにハーブの育て方を伝えようとしていた。僕がこの先寿命が尽きても、彼らにここの花たちを食糧にして生き延びていってほしいと願っているからだ。
なぜか雛はその気持ちを知っている感じがする。何でもかんでも僕がすればいいわけではない。現在はこの裏庭が管理されていても、僕が高齢になったりいずれ然るべき状況になれば、彼らは彼らだけの力で生きていかなくてはならないのだ。
『心先生のハーブ講座』と妙な名前を付けられ(雛の発案で)、休診日に授業を催すことになった。この日僕が彼らに伝えたかったこと、それは……。
「雑草を取りましょう!」
と、言うことだった。
最初からこう言えば良かったかもしれない。ただ、やらされている感じがするより必要だと感じてもらえたほうがなお良し。
僕は雑草取りのスケジュールを組んだ。
決行日。
今、僕の目の前には叶とわ子が立っていた。
「お久しぶりですね、叶とわ子様。何だか驚いた表情をされていますね」
久方ぶりの彼女は以前よりやつれている気がした。だが、心底驚いた表情や前回の別れ際に微かに纏っていた「棘」のような雰囲気が幾分なくなっていたので、少しは心の思うままに生きているのかなと想像した。
うーん、背中がもぞもぞとしてくすぐったい。いつの間にか雑草取り参加者が増えに増え、今日は一時間くらい前から庭の雑草を引っこ抜く作業に明け暮れた。それだけたくさんの妖精たちが今は僕の背に触れている。
触れているということは、まぁ当たり前だけれど「感情」がうちに流れ込んでくる。
——憎しみ、恐怖、不安、焦り、好奇心、疑念
数が多すぎて卒倒するかと覚悟した。
だが、実際には卒倒しなかった。嘔吐もなく、僕はいたって平常心でここにいた。
肩に乗っている雛の心が流れてくる。「驚愕」の感情はあるものの、他に負の感情は全然なくて、旧懐、奮励、慈愛……そういう感情に見えた。
雛が、過去の辛い出来事と目の前の叶とわ子を結びつけるのではなく、ただの事実として見ているそのことが、僕にはとても嬉しく思った。
雛が強くなったと実感した。
「心先生、大丈夫ですか?」
雛が僕を案じる言葉を口にした。雛の言葉を聞くことで、僕は背中から流れてくる感情を意識から切り離すことができた。
「大丈夫です。雛、ありがとうございます」
小さく呟く。
本当にもう大丈夫だった。今の状況は人生で初めてだったけれど、まさかこんなに多くの感情が自分に流れるとは思わなかったけれど、気絶することもなく僕の意識はそのままに。
僕は口角をふわりと上げた。
何度も雛に助けられた。
助け、助けられ、そしていずれ必ずやってくる別離が——……。
でも雛は、僕と生き残りの妖精たちが初めて会った後も、彼らとではなく僕の家で今まで通りに一緒に暮らしている。僕の肩に乗り、時にはポケットから顔だけ出して、同じ時を一緒に過ごしている。
「てっきり雛はスーマたちと一緒に行くのだと思っていましたよ」
ある時僕は素直な感想を口にした。雛は目を丸くして言った。
「えぇっ? そんなこと、考えたことありませんよ!」
「そうでしょうか? でも、服のプレゼントはもういらないと言っていたじゃないですか」
「はい、今までいただいている服がありますので、それで十分なんです」
雛が小さな口に手を当てて、ふふふと含み笑いをした。
「何でしょうね、わたし、心先生と同じようにあんまりほしいものが思い浮かばなくなってきたみたいなんです。嬉しいこと、大切なことが目の前にたくさんあるんです。心先生と一緒にいるだけで、わたしはもう十分満足なんですよ」
呆れた表情の叶をよそに、僕と雛と妖精たちが再び雑草を抜く作業をスタートさせた。出会った当初と比べてかなり健脚になった雛が、体全ての力を振り絞って「力強い」雑草を「力強く」引っ張り始めた。
雛は本当に強くなった。
僕も、もっともっと強くならなくては。
今、雛が抜こうとしている雑草はなかなかのくせ者らしい。しっかり根が張っているのか両足で踏ん張ってもちっとも抜けそうにない。一人、二人と妖精たちが協力しに来るが、それにしても抜けやしない。
「心先生……」
「はい」
困った顔で雛が振り返った。
使い込まれた軍手をはめ直し、僕は師匠のようにたくましいその雑草をどうにかするべく、雛のもとに駆け寄った。
(おしまい)
最後まで読んでくださり本当にありがとうございました!
あとがきはこちら
(準備中です)
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初めてのファンタジー小説「心の雛」の続きです!
お気軽にお付き合いくださいませ。
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