【紫陽花と太陽・上】第十話 逃避
(どうしてこうなった)
肩で息をしながら、俺はぼうっとする頭で考えた。目が霞んでいる。
目の前には妹が倒れていた。さらさらの黒髪が顔を隠しているので表情は見ることができない。妹の胸元が僅かに上下に動いているので生きていることが分かる。胸元のボタンははじけとび、下着が見えていた。
「あず……さ」
俺は呼んだ。かすれた声が出た。
先ほどまで自分の両の手は妹の首を締めていた。手のひらに感触が残っていてひどく気持ち悪いと思った。
「すまない……」
俺は正直に今の気持ちを言葉にする。謝罪を。
怒りに任せて自分のした所業を深く悔い、今はとてつもない後悔と恐れ——あずさに見放されるのではないかという恐怖——が俺の心を侵食している。
髪を引っ張り、腹を蹴り、腕をつかみながら家中をひきずり歩いた。聞いても返事をしないことにさらに腹を立て、首を締めた。妹の口からは声がしなくなり、俺の手を首からはずそうとしていた細く小さな手がだらりと垂れ下がった時、俺は初めて自分のしていたことを認識した。
「すまない、あずさ。返事をしてくれ……」
妹は答えない。
どうして答えてくれないのか。俺はこんなに後悔しているのに。
(百合に相談してみようか)
俺は震えながら電話に向かっていった。立ち上がろうとして転び、足に力が入らないことにさえ腹を立てた。
(ちくしょう、ちくしょう)
妹は生きている。少しの空気を求め、呼吸しているではないか。
電話の子機をなんとか棚からつかみ取り、落ち着こうとして肩で息をする。まず百合に電話を。ボタンを押す視界の端に、妹の白い足がちらついた。気が付いたら足に触れていた。俺の手が、妹の太腿に移動して、ゆっくりとスカートをまくりあげた。びくりと妹の身体が動き、視線が——顔を覆っていた髪の間から濡れた瞳が見え、そして目が合った。
妹は一瞬のうちに飛び起き、ふらつきながらも玄関から外に飛び出した。
止める間もなかった。本当にあっという間だった。そもそも俺の足は何も力が入らず、追いかけることもできなかったが。
あっという間に、俺の家から、俺の手から、妹は……あずさはどこかに行ってしまった。
(一体、今は何時なんだろう)
耳鳴りがする。閉まりかけた玄関の扉からは漆黒の闇が見えていた。
◇
ピンポンとインターフォンが鳴ったので、僕たちは一瞬父さんが忘れ物でもして戻って来たのかと思った。遅めの夏休みなんだと言って、僕たちがいつも住んでいる自宅に一週間ほど戻って来ていたのだ。つい一時間ほど前、父さんはまた単身赴任先の街に帰るために出発したところだった。
「お父さんかしら。遼介、ちょっとお願い」
椿の食べこぼしを拾いながら桐華姉が僕に言った。ちょうど僕たちはごはんを食べていたところだった。今日の晩ごはんは餃子だ。
「はいはい」
父さんだと思って確かめもせず、玄関の扉を開けた。
目線が下に向かう。そこには震えながら俯いたあずささんが立っていた。
「あずささん⁉ どっ、どうしたのっ⁉」
「…………」
あずささんの唇は真っ青になって震えていた。視線が合わない。何か大変なことがあったのは明らかだった。
「とにかく、入ろ?」
とりあえずあずささんの手をとって玄関のたたきに上がらせた。もしかしてお兄さんが追いかけて来ているかもと、暗闇にじっと目を凝らしてみたけど、しんと静まり返った道路には人影も人の声すらもしていなかった。
扉を閉め、鍵をきっちりかける。
一息ついてあらためてあずささんを見ると、髪はボサボサでシャツやスカートもぐちゃぐちゃ、足元は……裸足だった。
椿が名前に反応して様子を見にやって来たけれど、あずささんはぼんやりとして気が付いていないようだった。スリッパを出しそれを使ってもらうように言い、聞こえてないみたいだったので裸足の足に履かせて、彼女の手を引っ張ってゆっくりとリビングに連れて行った。
姉たちはひどく驚いて口をあんぐりと開けた。
こういうとき一番先に口を開くのが桐華姉だ。
「こんばんは! 遼介の友達かしら? 身長、同じくらいだしね。あっ、私ね、遼介のお姉ちゃんの桐華です! とうかさんって呼んでいいからねー」
リビングに沈黙が落ちる。
そりゃそうだ、どこからどうみても今のあずささんの様子は異常事態だ。転んで服がボロボロになることはあるかもしれないとしても、中学生の女の子が裸足で夜に出歩くとは思えない。
わざとなのか素なのか分からないけど、のんびりとした口調で桐華姉は自己紹介をした。
あずささんはずっとぼんやりしたままだ。
「ええと……私は次女の梨枝です。とりあえず、座れますか?」
「…………」
「何かあったんでしょう? 怖い思いをしたのかな? まずは……そうね、その辺にでも座って。今お茶を淹れるから」
あ、それともココアがいいかしらと梨枝姉は呟いた。あずささんはまだ震えていた。視線が一体どこを見ているのか僕には分からない。
桐華姉が台所に行き、椿はあずささんを心配そうに見つめている。そっと彼女の手を握ってみたり、引っ張ったりしている。
突然、ハッとしてあずささんが口を開いた。
「すっ……みません。お食事中に……あの、か、帰り……」
「かえんないでぇ、おねえちゃん!」
「……気にしないで! ここは、大丈夫だから!」
帰ると言いかけたのを聞いて思わず僕と椿が声をかけ、あずささんはまた黙った。その様子を見た梨枝姉が、しばらくの沈黙の後、切り出した。
「そうねぇ。今ごはんを食べていたところだったからテーブルがぐちゃぐちゃでごめんなさいね。でも、気にしなくていいの。あなたの方が大事だから」
「はい、どうぞー」
桐華姉が飲み物を持って来た。
あずささんがゆっくりと瞬きをして目の前に置かれたマグカップを見た。何かの景品でもらった黒猫の絵がついたカップには、マシュマロが入った温かいココアが入っていた。
「あずささん」
僕が呼ぶと今度は視線が合った。
「ココア、飲めそう?」
あずささんは、ややあってから小さく頷いた。頷いた拍子に、ポロリと、一粒涙が目からこぼれ落ちた。
あずささんはココアを飲んでも全然落ち着くことができなかった。ごめんなさいと謝り続けるのでその必要はないと何度も言い、姉たちの質問に対する返事も曖昧な言葉ばかりで、彼女の状況をみんなが理解するまで、おそらく小一時間はかかったと思う。
——お兄さんの怒りが爆発し、暴行を受け、逃げて来た
その暴行の内容が前よりかなりひどかった。
僕はあずささんに少しでも安心してほしくて手を握ろうとしたけれど、細い手首には赤黒いあざができていてぎょっとした。前会った時は白かった。触れたら痛いんじゃないかと思い背中をさすった。さすりながら、涙が込み上げてきた。
(なんで、こんなひどいことを)
(なんで、こんなことになったんだろう)
たくさんの「なぜ」が僕の中を渦巻く。優しく勉強を教えてくれた姿、授業中に眠りこけた僕を起こす少し困った顔、背筋をぴんと伸ばし颯爽と歩く背中……。それが学校のあずささんで、目の前の彼女とは別人のようだ。
しばらくぼーっとしていたらしい。どうやらあずささんは姉たちの勧めで椿とお風呂に入ることになったらしい。椿が嬉しそうに風呂場の使い方を伝授している。シャワー、蛇口の使い方、いいシャンプー(姉用)と普通のシャンプー(僕用)、お気に入りのお風呂のおもちゃ、あれこれ話す声が聞こえてくる。
「遼介、あずさちゃんとはよく遊んだりするの?」
「あんたにお勉強を教えてくれてた子でしょう? あと、たまに椿と遊んでくれた……」
「お兄さんのこととか、知っていたの?」
「うーん、あんまり。……お兄さんによく怒られる、っていうのは聞いたけど……」
「怒られる度を越しているわ。今の話は警察に相談するべきよ」
「警察といったら剛くんよね」
「剛には前に相談したよ」
「ええ? それで、どうだったの?」
「……でも、あずささんが気にしないでって言ってたんだよ」
「だからって、放っておいたらこれからどんなことになっちゃうのよ!」
あずささんと椿がお風呂に入っている間、僕は姉二人に詰め寄られていた。
「あんたは見た? あの子の首と腕、赤くなってたわ。首を絞められるなんてそんな恐ろしいこと、普通じゃないわ。服だって破れてたし! 乱暴だってされかけたかもしれないのよ!」
「桐華さん、抑えて。声が聞こえちゃうわ」
「うっ、ごめん! だって、あまりにもびっくりしちゃって……」
僕は黙ってしまった。こんなとき、父さんならどうするだろう……。ついさっきまで家にいたのに。さっきあずささんが来ていたら、もっと安心させてあげられたかもしれないのに……。
その時、玄関でガチャガチャと音がして、それからガツン! と大きな音がした。
「何っ⁉ 誰っ⁉」
「玄関、誰か来た‼ 遼介、鍵かけたんでしょうね‼」
「かけたよ! 上の飛び出てる鍵がひっかかった音じゃないかな……」
僕たちは大慌てで玄関へ飛んで行った。
「おぉーい、おーい、開けてくれー。お父さんだよー」
玄関の音の正体は父さんだった。U字ロックのせいで家に入れず困っていた。
全員が脱力し、のろのろと扉を開けて父さんを迎え入れた。さっきここから出発した父さんがどうしてまた戻って来たのかは誰もが疲れ果てて聞かなかったので、しばらくして自分から理由を述べた。
「どうしたんだ? みんな。疲れてるぞ」
「えぇ……まぁ……」
「お父さんさぁ、出発する日を間違えちゃったみたいでさ。本当は明日だったんだよ」
「そう……」
僕はぼんやりとした頭で、大人でも間違いをするんだなと思った。いや、僕の父さんだからなのかもしれない。僕の忘れ物しすぎる性格は、父親譲りだと勝手に思っている。
「どうした? 何があったんだ?」
キョトンとして父さんがみんなに聞く。全員、何から話せばいいのか悩んでいた。
桐華姉が口を開こうとしたとき、ちょうどあずささんと椿が風呂場から出てきたようだった。椿が着替えを手伝ってくれと呼んだので、いつものように僕が行こうと立ち上がったら姉たちにものすごい剣幕で制止された。
「ばかっ! あんた、あずさちゃんの裸見るつもりなの⁉」
「え? ……違うよ、椿の着替えをしないと……」
「誰だ? あずさって? 友達がお泊りに来る日だったのかい?」
梨枝姉が洗面所へ行き、僕たちはさきほどの様子を少しずつ父さんに話した。父さんは僕たちの話を遮ることはせず、最後までしっかりと聞いてくれた。
苺柄のパジャマ(これは桐華姉が着ている色違いの服であずささんに渡したのだ)を着た彼女が、さっきより少し落ち着いた様子でおそるおそるリビングにやって来た。父さんが戻って来たことは姉から聞いていたようだった。
「はじめましてー、遼介の父ですー」
「……や、夜分遅くに、大変失礼しました」
呑気そうな父さんに、あずささんが深々と頭を下げた。
「霞崎あずさちゃんと言ったかな?」
「……そうです」
「遼介と同じクラスの」
「……はい」
「普段僕はこの家にいないので話をあまり聞けていないんだけど、きっとたくさん遼介がお世話になっていると思ってね。いつもありがとう」
父さんがあずささんににっこり笑って話しかけた。その様子を、僕は不思議な気持ちで眺めていた。
今夜お兄さんからされた暴行について、父さんは何も言わなかった。ただ、自分が普段家にはいないこと、僕の母親が数年前に亡くなってしまったこと、僕の学校の様子を聞いたりなど、全然関係ないことをゆっくりと話していた。
「それで……、今日のことなんだけどね」
「は、はい……」
「君がお兄さんにひどいことをされたようだというのを、僕は桐華たちから聞いた」
あずささんが姿勢を正して、神妙な顔で頷く。
「僕は、君に今夜はここに泊まっていってもらった方が安心できる。分かるかな? 今現在、君のお兄さんがどういう気持ちなのか分からない、まだ怒りが収まっていないかもしれないし、そんなところに、君を帰すわけにはいかない」
父さんが続ける。
「お友達の家に泊まるということはよくあることだと思っている。遼介も剛くんと……あぁ、幼馴染なんだけどね、昔よくお泊りごっこをしていたからね。まぁ、君の場合はちょっと違うけど。
それで、僕は親として、君の保護者であるお兄さんに連絡をしたい。君の今いる場所をきちんと伝える必要があると思う。お兄さんも心配していると思うからね」
「ちょっと待って! お父さん、電話するの⁉」
桐華姉が驚いて父さんに叫んだ。
「そうだよ」
「うちにいますって、言うの? ひどいことされたのよ⁉」
「言うよ。親として、子供の友達を勝手に泊まらせるわけにはいかない。泊まらせるなら、無断ではなくきちんと了解を得るべきだ」
「了解するとでも思ってるの?」
「それは話をしてみないと分からないよ。第一、納得してもらうしかない。大丈夫、この家にお兄さんが来たとしても僕はあがらせないよ。あずさちゃんが大事だからね。暴力はたとえ家族であっても許されることじゃない。……どうかな?」
父さんがあずささんに確認した。
ずっと黙って聞いていたあずささんの顔は真っ青になっていた。僕は正直、彼女のお兄さんに連絡をするなんて考えてもいなかった。でも言われてみると、一応お兄さんに彼女の居場所を教えておいた方が良いのかなとも思う。一応保護者なんだし。でも万が一怒鳴り込んできたらどうしよう? 一番良い方法がさっぱり分からない。まったく頭が悪いなぁとため息をついた。
「父さん、あずささんのお兄さん、本当にすっごく怖い人なんだよ?」
「そうか、遼介。じゃあ、ますます連絡はしといた方がいいと思うな」
「……私は、何をすればいいでしょうか」
か細い声であずささんが聞いた。
「今の状況がご迷惑をかけてしまっているのはよく分かっています……。でも、どうしたらいいか、怖くて、よく分からなくなってしまって。……でも、いずれ帰るしかありません。それなら今すぐ帰った方が……」
「いや、君がとても不安に思う気持ちはすごく分かるよ。お兄さんとは僕がお話をする。君からはご自宅の電話番号を教えてほしい」
「……私は、話さなくて、いいのですか……」
「うん、お話は僕がするよ。……今日はもう遅い。眠れないかもしれないけど、もう布団に入ってて大丈夫だよ。今、梨枝が布団の準備をしているから。向こうの和室で、遼介と椿と三人で一緒に寝るといい。
遼介、遼介ももう寝て大丈夫だよ。お父さん、電話しとくから。明日の朝にどんな感じだったのか話すよ」
父さんがのんびりと笑って言った。
もちろん今夜はあずささんと一緒に寝るつもりだったけど、そうか梨枝姉の姿が見えないと思ったらあずささんの布団を敷いてたのか。
(父さん、へらへらしてそうでしっかりしてるよなぁ……)
夜も遅くなってしまっている。椿ももう寝かせないといけない時間だ。晩ごはんも途中だったけど、今更食べる状況でもない。
電話番号を伝えて戻ってきたあずささんを見た。まだ怯えた目をしていたが、最初うちに来た時よりは幾分和らいでいるように見えた。
「寝よっか」
あずささんと椿の手を繋いで和室に向かった。川の字で寝るなんて久しぶりだ。
「あの……本当に、お世話になります」
あずささんが姉に深々と頭を下げる。いいのいいの、ゆっくり休んでねー、と手をひらひらさせて桐華姉がリビングに戻る。すれ違いざまに、僕は「あんた、本当に一緒に寝るの?」とジロリと睨まれたが、なんでそんなことを聞くのか分からず、頷くしかなかった。
寝る準備を整えた頃には椿はこっくりこっくりと半分夢の世界へ飛んでいた。
「……遼介。今日は、すまなかった」
布団にもぐってからあずささんが小声で言った。月明かりで彼女の顔がぼんやりと見えた。迷子のような表情だと思った。
「……来てしまって、すまない。ご家族にも迷惑をかけて、本当にすまない……」
彼女の眉間のシワが深くなる。
「ずっと、あやまってる。あやまんないで」
「……でも」
「それより、ありがとうの方が嬉しいな」
「……そう、か。そうだな」
「でもまぁ、僕はあんまり何もできてないかな。……父さんの方が色々やってくれた」
「ううん、……私、兄に首を締められて息ができなかった時、遼介の顔が出てきた。何かあったら、何もなくてもうちに来てって言ってくれた。……だから、今日ここに来れた」
「……そっか」
「ありがとう。遼介」
言えと言っておきながら面と向かって言われるとなんだか照れ臭い。思わず口元まで布団をかぶり、コクコクと頷いた。
(首を締められる……怖かっただろうな。苦しかっただろうな)
静かな部屋に、カチカチと時計の秒針の音だけが響く。襖を閉め切ると隣の音はほとんど聞こえない。父さんは今頃お兄さんに電話をしているのだろうか……。
なかなか眠れず、それでも眠るために目を閉じた。あずささんが今日話してくれたことをどうしても考えてしまう。
しばらくしてそっとあずささんを見ると、目尻から涙を垂らしながらぼうっと天井を見つめていた。息を呑んだ。その様子は見たことがある。
(昔の、椿だ)
思わず布団の中で手を握った。あずささんがびくりとして僕の方を向いた。
「だいじょうぶ」
なんの根拠もないのに、言わずにはいられなかった。
「だいじょうぶ、隣に、いるから」
冷たいあずささんの手を握りながら、祈る。今だけは、安心だと。
「だいじょうぶだよ」
返事はない。けれど、今の僕にできることは、言葉で励ますくらいしか思い付かない。
彼女が眠りにつくまで。僕は手をずっとずっと温め続けた。
(つづく)
(第一話はこちらから)
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