【紫陽花と太陽・上】第十四話 究極の年越し蕎麦
その時僕は、ヤカンを火にかけてお茶の準備をしていた。
うちで大活躍だった電気ポットが少し前についに壊れ(使いすぎ?)、湯を沸かすのにガスコンロを使わないといけなくなった。
ほうじ茶か紅茶かで迷い、今目の前にある「本日のおやつ」は串だんごだったのでほうじ茶の筒を開けた。パコン。蓋を開けると茶葉の香ばしい香りが僕の鼻をかすめた。
うちの台所はカウンターキッチンなので、洗い物をしている時や今みたいにお茶を淹れる時は、たいていダイニングやリビングの様子がしっかり見える。
今、リビングではあずささんが椿に絵本を読んでくれていた。
「北風は言いました。ふん。強いのは おれ様にきまっている。おれ様がピューっと一いき ふきかければ、花も木も、家のやねだってふきとぶぞ」
椿が真剣に聞いている。それを見て、僕はくすくす笑ってしまう。
もう、何度も何度もこの絵本は読んでいるはずなのに、椿は飽きない。それに読み聞かせをしているのだと知っていても、あずささんが『ふん』とか『おれ様』とか言うのを聞くと、それだけで面白い。
シュンシュンと湯が沸いたので、急須に注ぎ入れた。
「北風。くくく、じゃあ、どちらが強いか、力くらべをしてみようじゃないか。
太陽。ええ、いいですよ。
北風。ようし。太陽、あれが見えるか?」
もうすぐ剛がうちにやってくる時間だ。
来年度(つまり中学三年生に進級してから)、部活の主将になるとのことで顧問の先生と少し話があったらしい。
剣道部主将。かっこいい肩書の、僕の親友。
お茶とおかわりが入った急須と串だんごを盆に載せてテーブルにやってきた。
絵本が読み終わる頃には、ほうじ茶も飲み頃の温度になっているはずだ。
「よんだ。たいよう、めっちゃつよかった」
椿が相変わらずの感想を述べた。いつもそう言っている。
「あずささん、いつも絵本を読んでくれてありがとう」
「……あまり、聞くなと言っているはずだ。恥ずかしいから」
「えっ、聞いてないよ、大丈夫」
少し頬を赤くしてあずささんが困った顔をしたので、僕はあわてて手を振った。……本当は一言一句聞いていたのだけれど。
「おやつの準備、ありがとう」
「それはどうも」
あずささんが僕たちの家に住み始めて、もう三ヶ月近くになった。
最初は戸惑っていたあずささんも次第に肩の力を抜くようになり、手伝いを積極的にしてくれたり一番風呂に入れるようになってきた。
住み始めてしばらくは『一番最後の残り湯で結構だ』と言ってきかず、頑なに最後に入りたがって苦労した。あずささんは遠慮がすごい。最後にお風呂に入るとそのままお風呂掃除もしてしまうので、おかげで我が家の風呂場はいつもピカピカになった。
リビングで座る場所も、最初は『なんで?』と思うくらい端の方に座っていた。背筋をピンと伸ばして、椿や桐華姉が飲み物が欲しいなど言おうものなら、ぱっと立ち上がって準備に取りかかる。
僕がソファでゴロンと寝っ転がったりしている隣でピシッと座られるのだ。それだと僕がものすごくだらしない人に見えてしまって、さすがに気まずい。
外で会うだけの頃は分からなかった普段のあずささんは面白くて、予想外で、僕は今までの出来事を思い出して微笑んだ。
思い出がどんどん積み重なっていく……。
「いらさいませー」
椿の声が響いた。剛が来たみたいだ。
僕はいつものように、生成りのエプロンを着たまま剛を出迎えた。
「おかえり」
「うん? おぉ、ただいま。俺んちじゃねぇけどな」
「じゃあおつかれさま」
「おぅ」
外はけっこう肌寒かったのか、剛が両手にはぁーと息を吹きかけた。
「寒かった?」
「そうだなぁ、ま、十一月だしな」
「あと少しで年末だよ。早いよねぇ」
「じーさんかよ」
僕は串だんごの乗った皿をそれぞれの前に置いた。隣であずささんがお茶を湯のみに注いでくれている。
「もうたべていい?」
椿がすぐ聞いてきた。全員のおやつの準備ができてから『せーの』で食べたいけれど、そんなものは大人の都合だ。
「いいよ」
僕は苦笑して言った。
「やった! いっただっきまーす!」
みたらしと黒ごまの串だんご。あんこはお店に三本しかなかったので、ケンカになるのでやめておいたのだ。つややかなタレが食欲をそそる。
僕たちはめいめいだんごを食べてお茶を飲んだ。
「そうそう、父さんね、年末帰って来れそうなんだよ」
「へぇ、そういえばしばらく帰って来てないって言ってたもんな」
「うん」
コホ、と僕は軽く咳をした。
「なんか、遼介、声がおかしくないか?」
「んー、なんか、かすれるんだよねぇ」
もう一度しっかりと咳をしてみた。
「や、こっち向いて咳すんなよ」
「風邪じゃないと思うよ? 全然喉痛くないし」
「……大丈夫か?」
僕が「あー、うー」と喉を押さえて声を出しているとあずささんがすごく心配そうに聞いてきた。彼女が手を伸ばし僕のおでこの熱を測ったが、平熱なので首を傾げた。
剛が僕らを見て、ボソリと呟いた。
「声変わりなんじゃねーの?」
声変わり? 聞いたことがない単語だったので僕はキョトンとした。
「あぁ、そういうこともあるのか」
あずささんはすぐに納得したみたいだ。
「え? 何? どういうこと?」
「お前……保健の教科書くらい、読めよ」
「保健の教科書?」
剛は大げさにため息をついて、言った。
「男子はさ、思春期辺りになると声変わりすんだよ。声が低くなるやつな」
「へぇ」
「へぇって、お前……。よく見たら、喉仏も出てきたんじゃね?」
僕は喉を触ってみた。正直なところ、よく分からない。
「分かんない」
「ぼーっとしてるもんな」
「うん」
「俺は声変わり、終わってっからな? 一応」
「そうなんだ」
「ばっ……お前、全然気が付かなかったのかよ!」
「うん」
「確実に、低くなってるだろうが、俺の声。昔と比べてさ!」
「昔ねぇ……よく覚えてないなぁ」
「ホント、ぼーっとしてるもんな……」
「本当だよねぇ」
のんびりと僕が答えたら、突然あずささんがブッと吹き出した。
唖然として、僕も剛も(たぶん椿も)あずささんの方を振り向いた。
あずささんが、笑っている……。
「りょ、りょうすけ……ふふ……そんなにぼーっと……ふふ……」
それから僕があずささんになんて返事をしたのか、ぼーっとしていた僕は、残念ながらさっぱり覚えていないのだった……。
◇
あずさが、笑った。
俺は驚愕した。
四月に転校してきてからもう何ヶ月になるのだろうか。この女はずっと無表情だった。
いや、だんだんと少しずつ表情は出てきたように思ったが「笑う」ということはずっとしてこなかった。
彼女の生い立ち(詳しくは知らねぇが)や夏の恐怖体験のことを知ってからは、まぁ無理もねぇかなと納得もした。
笑わない、のではなく、彼女の場合は、笑うことを知らない、のだと。
それが、笑った。
両手で口元を押さえながら、肩をふるわせて、笑った。
遼介の手から湯のみが落ちた。
そして俺は見てしまった。
遼介の、親友の顔が、みるみる真っ赤になって、耳まで真っ赤になって、落とした湯のみにすら気が付かずにいる姿を。
恋に落ちた、とはこういうことを言うんだな。
そんなことを考えながら、だんごを一つ、頬張った。
◇
師走。強い風が窓をガタガタと揺らしている。
僕はいつものごとく、台所で生成りのエプロンをつけて食事の準備をしていた。
隣にはあずささん。彼女のエプロンは、百合さんと一緒に買ったという濃紺のシンプルなやつだ。綿百パーセントの厚手のものの方が長持ちしそうだからだ、と彼女は胸元で両手をギュッと握りしめながら、少し得意げに説明してくれた。
三つ葉、天ぷら粉、塩、葱、かまぼこ……。そして海老、蕎麦の麺。
僕たちは今、年越し蕎麦を作っていた。
「年末、おじさんが帰ってくるのか」
「うん、今回は延期にはしないって。絶対に帰ってくるって言ってた」
「そうか、良かったな」
父さんはもうずっと単身赴任で家にいない。日本各地を移動する、航空関係の仕事だと聞いていた。詳しくは僕もよく分かっていないのだけど。
娘と息子を家に置いて父さんはバリバリ働いている。
季節ごとに帰ってくる特別な数日間は、家の中もいつもより丁寧に掃除をするし、ごはんだっていつもよりちょっと頑張る。
僕とあずささんは今年の年末の年越し蕎麦の話をしていた。
あずささんがうちに来て、初めて過ごす年末。
せっかくなら美味しい年越し蕎麦を作ってみよう。
行列ができるほど高級な蕎麦の麺を買うのではなくて、自分たちのできる範囲で手間暇をかけた究極の年越し蕎麦。
僕もあずささんも料理をずっとやってきた。
学校の家庭科の授業で最初は僕たちは同じグループで作業をしていたけれど、グループごとの技量に差がありすぎる(あずささんがものすごい手際の良さで僕のフォローをしていたからだ)といって、突然別々のグループになったのは少し残念だった。
今までの僕なら要領が悪い上に時間にも追われて、蕎麦まで頑張って作ろうという気持ちは湧かなかったと思う。
今は違う。
あずささんと一緒に台所に立つと、楽しい。どんどん作業が捗っていく。無駄がない。手早くできる。頑張れる。
父さんに美味しい蕎麦を食べてほしい。
二人で知恵を絞り、いろんなレシピを参考にしながら、丁寧に出汁からとることにした。
それと、海老の天ぷら。
スーパーのお惣菜コーナーで買ってくるのでもいいけれど、せっかくなら自分たちだけの力で自宅で揚げよう。
「これは……すごく難しそうだけど」
アイディアに基づいたレシピをルーズリーフに書き、僕は言った。
「でも、でもね。あずささんと一緒なら、きっとできそうな気がする」
「……私も揚げ物は一人ではしたことがないから、少し不安だ」
「油、跳ねて火傷でもしたら嫌だからね。それは僕がやるよ」
「揚げ油に入れる時のコツも調べたほうが良さそうだな」
「あっ、そうだね」
自作のレシピに注意するところも追記した。
三つ葉は軽く茹でて茎をゆるく結ぶと美しい。
サクサクの天ぷらにするには冷水を使う。
海老の下処理の仕方。
買い物リスト。
ドキドキしながら箸で蕎麦をすくい、口に含む。
家族の食べた時の顔を早く見たい。
父さんにびっくりしてほしい。
みんなに、喜んでほしい。
「……すごい、美味いな」
「うん、美味しい!」
「二人で作ったなんて、嘘みたいね」
「ずるずる、ずるずる(これは椿だ)」
僕とあずささんは顔を見合わせて微笑む。
年越し蕎麦は予想以上に美味しく完成した。
外は相変わらず北風がぴゅうぴゅうと吹く音がしていたが、僕の家はぽかぽかと温かく、笑い声が響き渡る。
「父さん、あのね」
「ん? どうした」
「あのね、あずささん、やっと笑ってくれるようになったんだよ」
僕はそう言って、隣りにいるあずささんを人差し指でつついて笑わせようとした。
「な、何をする……! そういうことでは、うまく笑えない……」
あずささんが身をよじって逃げる。追撃しようとしたら軽く睨まれた。
「わぁ、ごめんなさい」
すぐに僕は謝った。すると、その様子を上目遣いでじっと見ていたあずささんが一瞬ため息を付き、それからふわっと微笑んだ。
「あ、本当だ。あずさちゃん、いい顔するようになったねー」
「うちに慣れてきてくれて良かったわ」
「あっ、そんな恥ずかしがらなくってもいいのに」
「ずるずる、ずるずる(これは椿だ)」
父さんが、あずささんの笑顔を見て、つられて笑顔になった。
家族が蕎麦を食べながら、たくさん笑っていた。
これが、僕とあずささんが出会った頃の、すごく遠くて懐かしい記憶。
(つづく)
(第一話はこちらから)