連載小説「心の雛・続」 第二話 雛の不安
其の、うちに秘めたる贖罪は
誰かの赦しで癒えるものでもなく
己自身が赦せるものでもなく
犯した事実は変えられず
ただひたすらに、己を苛み続ける
ふんわりと香る季節の花たち。ラベンダーは初夏の訪れを告げてくれる。
わたしはこの薄紫のふっくらとした柔らかい美しいものが大好きで、心先生はそれを知っていて違う系統のラベンダーを植えるようになったとか。
「あぁ〜〜〜、いい香りです〜〜〜」
鼻をふくらませてわたしは思いっきり香りを吸い込んだ。今だけは先生に顔を見られたくない。それくらい鼻の穴が広がって、さぞひっどい顔をしていることだろう。でも! 仕方がないくらい素晴らしい芳香にわたしの感情はどうしようもなく流されてしまう。
くすっと漏れた声にわたしはハッと我に返る。ほんの、ほんのちょっとだけだけど、わたしは心先生に惹かれているので思わず赤面してしまう。
「ラベンダーの季節も、もう何度か巡ってきましたね」
それほどの月日が経っていた。わたしが先生に助けられてから。
「あの時助けていただかなかったら、わたしは野垂れ死んでいました」
「……そうですね、羽のない蝶のように、地に落ちた鳥のように、食物連鎖のひとつで土へ還り、雛と僕は出会えなかったと思っています」
そう考えると、心先生は食物連鎖とか生態系のルールに反する行為をしたのかもしれない。飛べない妖精を保護するなんて。歩けるけど、この家から外に出たらわたしはきっと生きていくことは難しいだろう。
空を見上げると柔らかい雲。
チチチ……とこの森で暮らす小鳥たちがさえずりながら真上を横切った。
「そういえば」
わたしはふと心先生を見て言った。
「はい」
「今日、新しい患者様が来られるんでしたか……?」
「はい、そうです。問診票はいただいておりまして、あと三十分ほどでご予約の時間となりますね」
「そうですか……」
久しぶりの新規患者様だった。
遠い森の奥にある心先生の病院は交通の便も悪く、基本的には前に診察したことのある患者様が再来院するのがほとんどだった。それか、ごくたまに口コミで新しい方がやってくる。それも、常連の患者様の身内が多かった。
今日これからやって来る方はまったくのご新規。
似たような事例で思い出すのは「叶とわ子」という女性のこと。
彼女は心先生と同じ心の医者をしており、心が病みすぎてどうにもならなくて当院に来た。狙いはわたし、妖精の力。彼女は恐ろしい人間だった。狙った獲物は逃さないと言わんばかりに道具を用い、わたしを狙い、わたしを庇った心先生にも大怪我を負わせた。
最終的に彼女は先生と話し合い、ハーブティーを召し上がることで落ち着きを取り戻し、今は「これから自分(叶とわ子)ができることを」と言って、未来のために償いをしているのだとか。
償うったって、すごく時間がかかるものなのだ。
考えすぎかもしれないけど、不安しかない。
わたしはラベンダーの花びらを握りしめた。
「雛」
「……はい?」
「何も、いつも病院の受付にいなくても良いですからね? 電話番も診療中だとしても僕一人で対応しますし、雛は雛で自分のしたいことを、自由に選択していいのですから」
「……はい」
「新規患者様と聞いて、一抹の不安を感じているかもしれませんね。僕は、雛が昔の怖い出来事と結びつけているのではないかと思っております。大丈夫、なんて安易に声をかけるつもりもありません」
心先生はわたしの気持ちを想像してくださった。
「たまに裏庭で遊んだりしてますよ! 今日はどうするか、まだ決めてませんけど……」
わたしが言うと、先生はにっこりと微笑んだ。
患者様が来院された。
男性の人間だった。髪色はところどころ白いものが混じり、背は丸まって襟付きのヨレた灰色のシャツを着ていた。心先生と見比べて相手の年齢が高いのか低いのか、ちっとも分からない。握られた両手がずっと震えていた。節くれだった手の血管がぼこっと浮き上がっていて、何より印象的だったのは落ち窪んだ虚ろの目だった。
そんな所感を持った、ということはそう。わたしは裏庭では遊ばないで、受付にこっそりと隠れて新しい患者様を見ていたのだ。
「遠い場所にも関わらず、よく来られましたね。道には迷わなかったでしょうか?」
穏やかな声で心先生が話しかけ、スッと手のひらで受付の前のスペースに設けられたソファに座るよう促した。男性は力なくソファに腰掛けた。
この病院の裏庭で摘み取った自家製ハーブティーを男性の前に置き、同じものを先生も置いて一口飲んだ。
「よろしければいかがでしょう。お口に合えば幸いです」
一つのティーポットから相手の目の前でそれぞれの茶器に注ぎ淹れ、同じものを最初に自分が飲むことで、その液体に悪いものは入っていないですよと伝えることにしているらしい。
たとえ相手がそんなことに気が付かなくても。一滴も飲まなかったとしても。同じことを先生はいつも行っている。
「あぁ、美味しいです」
小さなボリュウムでオルゴールの音が鳴る室内は静かだった。男性は目の前のティーが見えているのかどうか、ぴくりとも動かず、その場には先生の声とカップがソーサーに乗るカチャリという音だけが響いた。
しばらくの静寂。
問診票を眺めながら、先生は男性に少しずつ質問をし始めた。
「眠れないと思ったのは一年前から……と書かれてありますが、長いですね。お辛かったでしょう」
「全く眠れないのでしょうか? それとも、眠ってはいるけれど疲れが取れないなどの自覚があるという感じでしょうか?」
「食欲はいかがでしょうか?」
「朝はいつごろ起きていますか?」
男性はボソボソと答えるだけだった。
何しにここに来ているのか分からなかった。
心を病み、体の不調があり、どうにかしたくてここの扉を叩いたのではなかったのか。
覇気のない男性がソファに座ってから、かれこれ三十分ほどが経過している。男性の目がキラリと光ったのをわたしは見逃さなかった。
(つづく)
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