人生とは「老病死」に対する心のあり方を学ぶことではないのか
最近、筆記開示を再開したら、すこぶるメンタルの調子がいいぺぎおです。
人生の課題:老病死、にどう向き合うか。
人生の課題は、結局ここに行き着くのではないかと思う。
まずはこれらは、絶対に避けられない事である事。
そして受け入れる事。
どう受け入れればいいのかを知るために、宗教があり、哲学があり、科学がある。
人間関係なんてどうでもいいレベルの課題
アドラーは、人間の問題は人間関係に集約されていると説いているらしい。
僕は、これはどうでもいいレベルの話だと思う。
しかし、どうでもいいと思えないレベルの問題でもある。
それゆえに、「老病死」という課題に取り組む以前に、些末な課題である「人間関係」に頭を悩ませてしまう。
人間関係が大きな問題になるは、人間関係が重要なのではなく、重要でない人間関係の問題に頭を悩ませてしまう事が、問題だからではないだろうか。
問題解決の限界
世の中は、何かの問題を抱えた時それを解決しようとする。
しかし、問題解決型のメンタル対策には限界があることがだんだんわかってきているらしく。
最近はマインドフルネスで受け流す事や、セルフコンパッションを高め受け入れるなど、仏教由来の心理学的アプローチが注目されている
問題解決型の、状況をなんとかして幸福を手に入れようというアプローチには、際限がなく、疲れ果ててしまうし
そもそも解決できない問題だってあるわけだから当然といえば当然の流れなのかもしれない。
人間は課題を与えられると喜んでそれに手を出すが、課題そのものに意味の無い事なんて往々にしてよくある事。
仕事やゲームはその最たる例だ。
自分で課題を見つけられないから、「自由、暇」といった地獄から抜け出すために課題をもらってきている。
サルトルは「人は自由の刑に処されている」と残しているが、まさにそのとおりで、わざわざ人生を潰して意味のないタスクに時間を費やす。
これは、目の前の本当の課題「老病死」から意識を反らすためでもあるのだろうが
何故、向き合わないのだろう。
孤独であれ
結局人間は死ぬ時は一人。
最近、「釣りでもしながら瞑想して、そのまま死にたい」と思う事が増えた。
これは、文字にすると不幸に思えるけど。幸せな事なのかもしれない。
老病死と向き合うには、孤独は重要だ。
現代人には孤独を謳歌する力が無くなってきている。
ドーパミンどばどば出してくれる、仕事やゲーム、SNSがあるから、常にせこせこと何かをして生きている。
ゆっくり一人で居る時間を大事にして、死ぬという事。存在という事について頭と時間を使いたい。