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小夜の中山 夜泣き石

9月の連休で静岡県掛川市を散策しました。

掛川には民話や伝説に因んだ場所がいくつか残されており、新しい働き方LABの指定企画で一緒に活動している方々といくつかのスポットを巡りました。車に乗せていただけたため、徒歩や自転車、公共交通機関ではアクセスが難しい場所を訪れることができ、とっても幸せ。普段は1人で活動していますが、語り合いながら一緒に散策することで、より視点が深まりました。

今回は、遠州七不思議にも含まれている「夜泣き石」について紹介します。

夜泣き石とは?

「夜泣き石」とは、現在掛川市佐夜鹿(国道1号線の小夜の中山トンネル手前)にある石のこと。文化2年(1805年)に滝沢馬琴が書いた『石言遺響』(せきげんいきょう)には既に夜泣き石について言及されており、天保5年(1834年)頃に描かれた歌川広重の「東海道五拾三次之内」の「日坂 佐夜ノ中山」にも描かれているほど歴史があります。

こちらが夜泣き石へと続く階段
階段を登った先にあるこちらの石が夜泣き石です

①夜泣き石の歴史や由来

では、夜泣き石とはどのような石なのでしょうか。夜泣き石伝説について記された物語にはいくつかのバージョンがありますが、その由来については次のような内容でおおよそ共通しています。

昔、今の掛川市日坂に「お石」(「小石姫」と書かれている書物もある)が住んでいました。お石の夫は京都へお城勤めをすることになります。しかし、既に妊っていたお石はとても京都へ行けそうにありません。そこで夫は、京都での暮らし向きが良くなったら迎えに来ると約束をして出かけました。しかし1ヶ月を過ぎても一向に連絡がありません。既にお腹が大きくなり、畑仕事もできなくなったお石。やがて食料も尽きてしまいました。そこでお石は、家宝の名刀・赤玉丸を持ち出して食べ物に変えようとしました。

するとそこへ、轟業右衛門という山賊が通りかかり、お石が名刀を持っていることを知ると、無理やり奪って切りつけました。こうしてお石は殺されてしまいましたが、刀の切先が丸石に当たったため、幸いお腹の赤ん坊は無事だったとのこと。この丸石にお石の魂が乗り移り、赤ん坊の助けを求めて泣き続けたものが夜泣き石です(赤ん坊の声で泣き続けたという説もある)。

参考資料や文献、夜泣き石の看板をまとめたもの

このように、子を残す母親の悲痛な思いがこもった魂が石に移り、夜泣き石が誕生したのです。

生き残った赤ん坊はどうなったのか?

夜泣き石の伝説には、生き残った赤ん坊について語られた後日譚があります。書物や資料によって大きく2つのパターンに分岐します。

○僧が直接赤ん坊(音八)を救うパターン
山頂にある久延寺の僧が直接夜泣き石の声を聞き、そこに横たわるお石の亡骸と、虫の息だった赤ん坊を発見→お石を供養し、赤ん坊を保護→音八と名付けられた赤ん坊を、お乳の代わりに麦芽糖が豊富な飴を与えて育てる

○観音様が雲水に姿を変えて赤ん坊(音八)に飴を与えるパターン
夜泣き石の評判がたった頃から、近くにある飴屋へ毎夜のように雲水(各地を修行して歩く僧)が訪れる→不思議に思った飴屋の主人が後をつけると、雲水は夜泣き石の前で姿を消してしまった→飴屋の主人は、夜泣き石近くに大量の飴の包み紙と女の着物に包まれた赤ん坊を発見→久延寺の僧に話し、僧は雲水が観音様であると考え赤ん坊(音八)を飴で育てる

いずれのパターンも、赤ん坊は飴を食べて生き延び、やがて久延寺の僧に保護され、音八と名付けられるという点が共通しています。

結末を巡る2つの分岐点〜仇討ちか和解か〜

さて、久延寺の僧に保護され、飴を食べてすくすく育った音八。やがて久延寺を離れて刀研師へ奉公することを決意し、大阪へ移ります。

ある日、音八のもとへ刃先に大きな刃こぼれがある名刀を持った老人がやって来ました。刀を研ぎながら、音八は思わず「刃こぼれさえしていなければ…」と呟きます。すると、その言葉を受けて老人は刃こぼれの理由を話すのですが、ここでこの老人が轟業右衛門であることが明らかになります。

いよいよ最終局面なのですが、ここでも書籍や資料によって

○悪びれもせず刃こぼれの理由を話す業右衛門に、音八が仇討ちして無念を晴らす

○業右衛門が音八に対して若かった頃の過ち(お石を切ったこと)を反省する弁を話し、長い年月胸にあった思いを語り合って亡き母の御魂を休めた

といった異なる結末が描かれていました。

民話は口承で伝播していくという性質から、語られる時代背景や、語り手・聞き手の影響を受けながら変容していきます。展開の違いはこうした伝播の過程で生まれたと考えられますが、いずれにせよ、人々はこの石を「夜泣き石」たらしめるべく、実物を残し続けるとともに、想像を膨らませながら伝説を語り繋いでいったことがうかがえます。

皆さんは、どのような展開や結末を好みますか?また、今の時代に新たな夜泣き石の物語を紡ぐとしたら、どのような展開や結末を描くでしょうか。

夜泣き石の近くに、こちらの案内看板がありました
少し離れたところにある久延寺さんの夜泣き石。こちらは物語に登場する石ではなく、母親を供養するためのものだと言われています。
久延寺さんの夜泣き石の近くにあった看板

②夜泣き石の見どころ

夜泣き石の見どころは大きく2つあります。

旅をした夜泣き石

1つ目は、夜泣き石の近くにあるこちらの石灯籠。「奉納 銀座松坂屋」と書かれています。

「なぜ掛川なのに銀座松坂屋?」と不思議に思いますよね

どうやら夜泣き石は明治の頃に東京で開催された勧業博覧会(興行は失敗し、焼津に置き去りになっていたものを地元の人々が運んだそう)や、昭和7年に銀座松坂屋で行われた静岡物産展に出展されたという歴史があるようで、こちらの石灯籠はその時のもののようです。

道路開発によってその位置を移しただけでなく、東京にまで運ばれた過去を持つ夜泣き石。この石灯籠からは、そんな夜泣き石の〝旅〟の軌跡や、現実と想像の間を揺らぎながらも伝説を紡ごうとする動きが明治以降にも残っていたことを知ることができます。

伝説由来の子育て飴を食べることができる小泉屋さん

夜泣き石の見どころ2つ目は、宝暦元年(1751年)創業、名物である子育飴を販売している小泉屋さんです。

『石言遺響』が書かれたよりも50年ほど早い創業である小泉屋さん。伝説に因んだ麦芽糖が豊富な子育飴や、子育飴をとかして混ぜ込んだ子育飴ソフトクリームなどを楽しむことができます。撮影とSNS掲載許可をいただき、写真を撮らせていただきました。

こちらが子育飴。1本100円で販売されている他、お土産用のものも販売されています。
子育飴ソフトクリームの案内。
私は子育飴ソフトクリームをいただきました。甘みの中に子育飴の香ばしさが良いアクセントになっており美味しかったです!

さらに、店内には夜泣き石に関する貴重な資料がたくさん。夜泣き石を見る前に訪れて予備知識を得てから実物を鑑賞するもよし、先に夜泣き石を見た後に訪れて新たな発見を楽しむもよしです。

夜泣き石の由来が記されていました。
明治時代に中山新道が開通した頃の様子について書かれていました。夜泣き石と思われる石が道端に置かれています。

こちらが小泉屋さんのホームページになります。お店の情報に加え、夜泣き石の情報もまとめられており、とても分かりやすいです。

アクセスなど

改めて夜泣き石のアクセスを確認しておきましょう。

◯住所
〒 436- 0062 静岡県掛川市佐夜鹿57-8 小泉屋の裏

○アクセス
⚫︎車…旧国道1号線「小夜の中山トンネル」東側(掛川駅より車で30分。金谷駅より車で10分)

◯参考URL/参考文献
<たびらい>https://www.tabirai.net/localinfo/article/article-18557/
<掛川で見る・知る>https://www.kakegawa-kankou.com/kanko/guide/facility_detail.php?_mfi=54
<『晴明塚』>(著)石野茂子、(発行年)2007年、(発行所)静岡新聞社


民話や伝説ゆかりの地や、それらに因んだものが今もなお大切に残されているところが、数ある掛川の魅力の1つだなぁと感じています✨
他にもいくつか散策したので、またブログにまとめようと思います。

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