言葉と認知
この聖書の一節は、ヒトの認知による自然に対しての解釈、理解、認識を端的に表している。また、仏教思想に於いても同じような意味の言葉が述べられている。
法は言葉に依って成るものであり、ヒトの共通認識となる為、自らを拠り所(認知)として、法を拠り所とする(共通認識)という言葉は、人の認知の始まり(アルケー)が「言(logos)」であると言っているのと大体同じ意味になると言えるだろう。
自然の真実の姿は未だ解明されていない。理論通りに前提を整えて実験をしても再現性が伴わないことが多い。
おまけに人間が自然を解釈する時に用いる数学には「不完全性定理」があり、観測限界まで自然を解釈した量子力学には「不確定性原理」があるため、自然を科学で正確に把握しているとは言い難い。
ということは因果というものは全然捉えられておらず、ヒトの認知の限界が見事に示されている証拠となる。人類は自然に対して何一つ正確に把握、理解しているものは無いということになる。
自然、世界の真の姿を捉えることが不可能だとは言い切らないが、少なくとも現時点では全く捉えられていないことは確かだ。つまり現段階では自然や世界、宇宙はヒトの認知によって形成されていると解釈する他無いだろう。観測自体、人間の五感と言う曖昧で錯覚の起こしやすいもので行っているということを忘れてはならない。
認知についてwikipediaにはこう書かれている。
そして思考は大体言葉に依って成される。他者に自分自身の何かしらを伝える時も、言葉を使う。そして言葉にはミームが伴う。ミームが伴うということは、言葉には力があるという事実を覆すことが出来ないということになる。
よって、言葉には気を付けないといけないという結論になってしまう。認知は人によって違うため、認知が世界を形成するのであれば、誰一人絶対的に正しい人は居ないということになり、誰一人絶対的に正しい人が居ないと言うことは逆に考えるなら、他者に対して間違っていると言える人は一人も居ないということになる。
聖書のこの節もまた、それを端的に表現している。正しい知識を持つ者は一人も居ないのだから、個人的な主観で他者を裁いて良いはずがなく、また正しくない者が他者を裁けば、その者は自分が裁いた裁きによって裁かれる。当然の事と言えるだろう。
これを説明するには、速度超過の喩えを用いるとわかりやすいだろう。警察権を持たない私人が、自動車で速度超過した人を追いかけて注意するには、自分も速度超過しなくてはならない。よって、速度超過した人を裁けば、自分も同じ罪に問われるというわけだ。
般若心経の無無明尽もやはり同じようなことを表しており、ヒトに理解できるものは何一つ無いことが示されている。
正しい者が居ない以上、他者を否定する言葉というのは他者を傷付けるだけのものであり、何の意味も無いということになる。
確かに自分の精神を安定させる心得として、言葉という空で傷付いたりしないようにするのは知恵と言えるが、だからと言って他人に対して好きなように言葉を放っても良いとはならない。人によってはどうしても耐えられないトラウマなどを想起させる言葉がある。色は空であるが、空は色でもあるのだ。
「あなたは間違っている、あなたの認知はおかしい。歪んでいる。」この言葉は場合によっては人を傷付け、人の認知を歪ませる恐ろしい呪いの言葉であると思っておいた方が良い。正しい言葉の使い方をするならこうだ。
「なるほどあなたはそう解釈しましたか。あなたと私の認知には違いがありますね。参考までに私はこう考えています。」
正しい認識が出来ている人間は一人も居ないということは科学的に証明されているのだから、あなたは間違っている、という言い様は間違っている。そして正しさが証明されないなら、個々の解釈や認知に正誤優劣貴賤は無い。よって、お互いに認知(あるいは認識)が違いましたね、と言う風に、違いを確認し合えばそれで良く、あとは納得して話を終えるか、もう少し深く話し合って、妥協できる着地点を見つければ良い。否定し合う理由は無い。そもそも建設性が欠片も無い。それはただの水掛け論だ。
面白いことに、水掛け論のような無意味なものは、「自称賢い人」ほど好む傾向にあり、やはり「自称賢い人」イコール野狐(やこ)ということを如実に物語ってしまっている。(野狐(やこ)についてはこちらの記事を参照)
言論や表現の自由というのは、他者の権利を侵害しない限りに於いて、という前提がある。侮辱罪や名誉棄損罪、脅迫罪と言った言論による刑法上の罪も規定されているし、知的財産権のようなものもあるので他者の発想や案を自分のものであるかのように誇示して利益を得ることも禁止されているが、これも言論、表現の自由に対する規制の一種だ。自由の前に優先されるものとして、公共の福祉がある。言論や表現の自由も公共の福祉に反していれば認められることはない。
それに言論や表現の自由はあくまで社会運営を円滑に行うための法であって、人権等と同じくヒトが生得的に持つものではないので、あって当たり前のものと言う訳ではなく、法によって与えられている。そもそも権利そのものが社会と法によって与えられているものであり生得的なものではない。であるからして当然、責任や義務も法によって課せられたものであり、生得的なものではない。そして法とは言葉によって成り立っている。
文明、文化、科学的知識、すべて言葉によって伝えられている。言葉には確かな力があるのだ。
真に賢い者は言葉の力を知っている。言葉の力を知る者は認知の曖昧さを知っている。認知の曖昧さを知る者は世界を主観でしか捉えられないと知っている。主観でしか捉えられないと知る者は、個の客観などというものは存在せず、主観の集合体である共通認識が客観性を帯びる程度だと知っている。故に真に賢い者はこう言う。「私は無知だ」と。