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小説・ぬるい臨界
賢吾が中学生の時から、真由子は「個別指導塾 桜風会」の講師として、彼に数学を教えている。
彼の授業は火曜日の20時45分から。先月までは19時からのコマで通塾していたが、この4月から始まった怱怱たる高校生活に忙殺されて、あれよあれよと後ろ倒しになっていた。
前のコマの生徒が皆捌けてしまうと、教室は瞬く間に夜のしじまに覆われていく。春冷えを振り払うように、真由子は軽く伸びをした。
*
入口扉に据え付けたベルが、カランと乾いた音を響かせた。
「お、こんばんはー」
「ッス」
賢吾は軽く会釈をしながら、真由子の右側の椅子にドサリと腰を下ろした。ぞんざいに投げ出された四肢が、椅子からはみ出て雪崩落ちる。
初めて受け持った頃は上背が150センチもなかったはずだが、いつの間にか随分大きくなった。
真由子は自分の椅子を心持ち左側にずらした。
「お疲れだねぇ」
「ン。ねみぃ」
進学以来、賢吾はいつも疲労と睡魔と一緒にやってくる。くあ、と大口を開けて欠伸する賢吾を横目に、授業記録のノートを埋めていく。
「部活、大変らしいねぇ」
「んー。試合は楽しンだけど、コーチ考案の筋トレがやばい」
欠伸混じりのままふにゃりと笑った。
高校の野球部がかなり過酷らしいことは、塾長である西川先生から聞き及んでいた。練習メニューがスパルタな上に、期末試験で全科目60点以上取らなければ試合に出してもらえないらしい。
どれだけ厳しい条件を課されても、賢吾はこれまでどおり、いや、これまで以上に、生活の全てを野球に捧げている。
そこまで熱中できることがある人生を、真由子はいつも羨ましく思う。
真由子には、そんな風に自分を犠牲にしてまで得たい何かというのはない。淑やかな雰囲気に憧れて入った花道部も、友達と一緒にはまったアイドルグループも、当時はそれなりに楽しんだはずなのに、結局全て一過性のものでしかなかった。
それは就職においても同じことだった。講師のバイトを始めてまもなく、自分にとって教師は天職だと感じた。子供の頃から勉強は得意だったし、子供と接するのも全く苦でなかった。真由子の自負は決して独りよがりではなく、実際生徒からの指名も多かった。ここでなら、私も花開けるのかもしれない。いっときはこのまま桜風会に就職しようかとも思ったが、恒常的に夜型生活を続ける決心がつかなかった。ならば学校の先生はどうかとも思ったが、薄給激務の噂を聞いて教員免許すら取らなかった。いくら適性があろうとも、甘ったれの自分に勤まるとは到底思えなかった。
結局、周囲と同じように普通に就職活動に勤しんだ。そこでも特段苦労を味わうことはなく、既に地元の食品メーカーに内々定をもらっている。そこそこ大手企業なので、給与も福利厚生も悪くないはずと踏んだ。もちろん、夜勤も肉体労働もない。
安全圏内で繰り返す日々は、肌あたりが優しく穏やかだった。一方で、何もかもが簡単に過去に溶け消えていく自分の人生の在り方に対して、微かな不安を感じてもいた。
*
「あ、賢吾くん来たの。お疲れー」
西川先生が、教室のドアからひょこっと顔を出した。
「ッス」
「寝ずに頑張れよー」
「…ッス」
賢吾に声をかけた後、今度は真由子に向かって
「野田先生、私、C教室の方で模試の採点してるので。何かあったら声かけてくださいね」
と言い、ぺこりと頭を下げた。学生バイトの真由子に対しても、西川先生は必ず敬語を使う。付き合いが長くなったからといって決して不用意に踏み込みすぎない、西川先生の距離感は心地よかった。
真由子も軽く会釈を返し、改めて賢吾の方に向き直った。
「最近さー、私も筋トレしてるんだよね」
授業に入る前に、勉強以外の話題で雑談を数分入れること。これは講師研修会で習ったテクニックの一つで、真由子はほぼ全ての授業で律儀に実践している。
今日は二次関数の続きからだ。この単元は高校数学全体の基礎になるから、決して蔑ろにはできない。
「ンー」
賢吾は相変わらず緩んだ表情で、真由子の話を何ともなしに聞き流している風だった。軽く目線を落としたまま、椅子に身体をもたせかけている。まとわりついている睡魔を、もう少し追い払う必要がありそうだ。
「腹筋とか結構頑張ってるんだけど、やっぱりなかなか割れないねぇ」
「俺さー」
徐に返事があった。
「鍛えなくても、腹だけは割れてんだよね」
独り言が会話に昇格し、真由子は内心ほっとした。
「えー、そんなことある?」
「ほんとほんと。小6くらいからずっと」
賢吾の声調が強まった。この雰囲気なら、そろそろ授業に入っても良かろう。
「本当にぃ」
真由子は適当な相槌を打ちながらテキストのページを開いた。軽く前回の復習から入るつもりだった。
「ほんとだって。触ってみる?」
「え」
答える間もなく、賢吾はぐっと上体を起こしワイシャツを少し捲くした。
たしかに真由子は勉強が得意だった。だが一方で、予想外の事態に対応するのはすこぶる苦手だった。咄嗟の機転というやつがまるで効かないのだ。それは地頭が悪い証拠だと思っており、真由子の少なからぬコンプレックスのひとつだった。
「…すごーい。本当に割れてる」
辛うじて絞り出した答えも、案の定気が利かないものだった。真由子はいらいらした。
「触っていいよ」
いいよ、じゃないのよ。
追い詰められた真由子は、思わず賢吾の目をじとっと覗き込んだ。賢吾は、真由子と目があっても全く怯まなかった。彼の眼差しには、ーー真由子が内心懸念していたようなーー湿り気を帯びた魂胆は、微塵も読み取れない。単に筋肉自慢がしたいだけなのだろう。
となると、それを殊更に拒絶することも、それはそれで諸刃の剣に思えた。真由子の思念が、眼前の腹そのものを超えて別のところに到達しているーーそういう風に誤解を与えることは、仮にも教鞭を取る者として絶対あってはならないと思った。
そろりと辺りを伺いながら、賢吾の腹に指先だけで触れた。ほんの僅かに力を込めて押したが、隆起は堅くびくともしなかった。顔や腕に比べれば幾分か白く、そして熱かった。この熱さを識ってしまったこと自体、とんでもなくおそろしいことに思えた。
私は熱に耐えうる度量のある人間ではない。
頭の中に渦巻く畏れに圧倒されながら、唐突にそう思った。もはや願いに近かった。ぬるま湯でいい。過ぎ去ってはぼんやり霞んでいく、他愛のない日常で、私は充分。
「何もしなくてこんなにムキムキなら、羨ましいわ」
真由子は努めて長閑な声を出した。
「でしょ」
賢吾は得意げに破顔した。