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独り善がりの救済願望
不要な優しさが、あなたを困らせてないかと思う
つまらない同情に酔いそうになる
苦しそうにしている誰かを見たとき
偶然にそれらしく見えたとき
「力になってあげたい」と、何もないままに思ってしまう
セルフコンパッション(自身に優しさや慈しみを向けること)ができない私達は「許される命、価値のある命」になろうと"誰かの救済者"になろうとする。
自身の無価値感、罪悪、劣等から逃れるための称賛。
「救いたい誰か」は「救われたい私」なのだ。
「価値のあるものになりたい、許されたい、愛されたい」
私の優しさはいつも、欠乏した自己の補填だった。
なんて不純、なんて下心。汚くてたまらない優しさ。
また今日もそんな人を見つけてしまった。
助けたい、なんて烏滸がましいほど私よりずっと才能もあって努力もできる素敵な人。
私が入る隙間なんてこれっぽっちもないのに、なんだかちょっとだけ「似ているような気がする」程度のことで力になってあげたいなんて身の程知らずに考える。
少し苦しくて愚痴を言っただけかも。
苦痛や悪性に価値を見い出しただけかも。
ただの嗜好かも。
それでも「私も同じようなことを思うよ」って感じて寄り添ってあげたくなって必要にもされない優しさを身勝手に押し付けそうになる。
あぁ、必要とされたいな。
「要らない優しさ」って言われないように。
あなたの気持ちに指先1つ触れられないのに「知りたい」なんて失礼な哀れみかなって思ってしまう。
苦しそうにしてるあなたの力になりたかった。
こんな私がそんな立場を望めるわけないって分かってても優しい理解者でいたかった。
全てが独り善がりの感情と思えば何も言えなくなる。
自分の為にあなたを私と同じ舞台に立てて救いたがる。
ごめんなさいと思う。
けれど。
ただのメサイアコンプレックスだったとしても、あなたを知りたくて、助けたくて、力になりたかったのは本心だった。本当に本当に迷惑だと思うけど。
いつかはこんな不純な動機無しで誰かの力になれたらと思うけど、誰にも望まれないだろうし私自身今ほど他人を助けようとしないかもしれない。
自分が嫌いで嫌いで仕方なくて、そんな自分を少しでも許すために救済者のように振る舞う。役に立つものであろうとする劣等感。
でも結局のところ、それも他者を自分の為に利用していることには変わりなくて。
汚いな、穢らわしいなとつくづく思う。
「優しさに真偽はないよ」と他人に向けて笑顔で言えても、私自身の行為がその言葉に疑問を投げかける。
「私の優しさは本物か?」と。
浅ましくも見返りを求め、不要と切り捨てられることを恐れ、価値のある何かになるために人に手を差し伸べて称賛の為に生きている私が「優しい人」なんて評価を貰うのは間違っていると思わずにはいられなくて自己矛盾を繰り返している。
救いたいと思わずにはいられない。
̶救̶わ̶れ̶た̶い̶と̶思̶わ̶ず̶に̶は̶い̶ら̶れ̶な̶い̶。
愛してあげたいと思わずにはいられない。
̶愛̶さ̶れ̶た̶い̶と̶思̶わ̶ず̶に̶は̶い̶ら̶れ̶な̶い̶。
私達が誰かに向ける気持ちは映し鏡であり、そうなりたかった、そうなって欲しかった過去の傷を忘れたくて繰り返し抉り続ける。誰かを救う度に満たされて、そうならなかった過去に苦しみ、また誰かを救おうとするトラウマの再演のようなもの。
病み垢を運用していると私のような人を沢山見てきた。
(何もないけど)誰かを救いたい、役に立ちたい。
ただ苦しい辛いと吐く人もいれば、幸せそうな人間が気に食わず攻撃的になる人もいるし、私のようにそんな人らを救おうとする人もいる。
多種多様ながら、その根底には一様に「救われたい」という願いが込められている。
この行為は崇高ではない。
それを忘れることなく、私は赦される日を望んでいる。