夜の散歩
昼間の街と、夜の街は全然違う顔を持っている。
私が夜の散歩を習慣にしたのは、去年の秋のこと。残業続きで帰宅が遅くなり、なんとなく寄り道をしたのがきっかけだった。
その日は珍しく、満月が街を照らしていた。
コンビニの明かりも、自動販売機の灯りも、昼間とは違う表情を見せている。
人通りの少ない住宅街を歩きながら、初めて気づいたんだ。
夜の街には、不思思議な魔法がかかっているということに。
「あれ?この道、こんなに素敵だったっけ?」
昼間は何気なく通り過ぎる場所が、夜になると特別な空間に変わる。
街灯の光が作る影絵。
誰もいない公園のブランコが、風に揺られてキィキィと音を立てる。
道端の猫が、夜の帳に紛れて影のように駆け抜けていく。
それから私は、意識的に夜の散歩を楽しむようになった。
まずは自分の住む街の再発見から始まった。
昼間は気づかなかった路地の奥にある古い井戸。
玄関先で静かに咲く月見草。
深夜営業の小さな定食屋から漏れる温かな明かり。
「いらっしゃい」
定食屋のおばあちゃんが、いつも優しく声をかけてくれる。
深夜に食べる肉じゃがの味は格別だ。
夜の散歩には、不思議な効果がある。
昼間のストレスや悩みが、暗闇の中でゆっくりと溶けていく。
車の通りも少なく、街全体がちょっとだけスローモーションになったみたい。
「ああ、今日も一日終わったんだな」
そんな実感が、ゆっくりと心に染み渡る。
最近のお気に入りコースは、住宅街から少し外れた河川敷。
街灯が少なくて、星空がよく見える。
スマートフォンの画面を消して、しばらく空を見上げていると、
だんだん目が慣れてきて、より多くの星が見えてくる。
先日は流れ星を見つけた。
「願い事は?」なんて考える間もなく消えていったけど、
それもまた夜の散歩の醍醐味。
予期せぬ出会いと、ちょっとした驚き。
時には、同じように夜の散歩を楽しむ人とすれ違う。
お互い軽く会釈を交わすだけ。
でも、なんとなく分かる。
この静けさと、この空気感を共有できる仲間なんだって。
犬の散歩をする人。
コンビニに向かう人。
深夜勤務の帰り道の人。
それぞれの夜の過ごし方があって、
それぞれの物語がある。
雨の夜も好きだ。
傘をさして歩く音。
アスファルトに反射する街灯。
雨の匂いと、どこかの家から漂うカレーの香り。
感覚が研ぎ澄まされていくような気がする。
真冬の夜は、息が白くなって、
星がより一層輝いて見える。
夏の夜は、どこからともなく虫の声が聞こえてきて、
懐かしい気持ちになる。
春は桜の木の下を通るのが楽しみ。
昼間は人で賑わう花見スポットも、
夜は静かに花びらが舞い落ちる。
秋は木々の間から月が覗いて、
影絵のような景色を作り出す。
「歩き方」にも、こだわりが出てきた。
ゆっくりと、一歩一歩。
かかとから着地して、つま先で蹴り出す。
そんな歩き方をしていると、
自然と呼吸が整っていく。
スマートフォンは、写真を撮る時以外はポケットにしまっておく。
SNSの通知も、メールも、全部後回し。
この時間は、自分だけのもの。
たまに、ふと立ち止まることもある。
街の音に耳を澄ませてみる。
遠くの電車の音。
コンビニの自動ドアの開く音。
誰かの笑い声。
猫の鳴き声。
「あ、この曲いいな」
深夜のコンビニから流れてくるBGM。
なんの曲か分からないけど、
この時間、この場所にぴったりな音楽。
家に帰る頃には、心が整理されている。
明日への活力も湧いてくる。
シャワーを浴びて、温かい飲み物を飲んで。
ベッドに入る頃には、心地よい疲れ。
「また明日」
そう思いながら目を閉じる。
明日はどんな夜の風景に出会えるだろう。
夜の散歩は、私だけの小さな冒険。
毎日同じ道を歩いているはずなのに、
その日の気分や天気、季節によって、
まったく違う表情を見せてくれる。
だから飽きない。
むしろ、毎日が新鮮。
そうそう、最近は散歩写真を撮るのが趣味になった。
昼間には見られない光と影の世界。
一つ一つの写真に、その夜の記憶が詰まっている。
スマートフォンのギャラリーには、
私だけの夜の散歩アルバムが育っていく。
それは、この街で過ごした時間の記録。
そして、これからも続いていく私の物語。
(おわり)
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