ここ最近で
ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』
上野千鶴子『女ぎらい』
村田沙耶香『コンビニ人間』
木地雅映子『氷の海のガレオン/オルタ』
を読んだ。
『闘争領域の拡大』が一番好きだと思った。今まで読んだ小説の中でも一二を争うくらいかもしれない。訳者のあとがきにこう書かれていた。
裏表紙には、「今一度思い出してほしい。あなたが闘争の領域に飛び込んだ時のことをー。「自由」の名の下、経済とセックスの領域で闘争が繰り広げられる現代社会。」と書かれているが、あらすじとしてなんて説明したらいいかわからないけど、主人公が仕事したり、出張いったり、同僚のモテない男性(ティスラン)と関わったり、発狂したりする話だ。
読んでいてすごく楽しめたし、全然立場も違うけど、感情移入して共感もできた。それは上述のあとがきに書かれている、著者(語り部)の「同情」の能力のおかげに他ならないのだろう。
好きな場面はたくさんあるが、冒頭の3頁はとてもすてきで、何回読み直しても良い文章だなあと感じた。そのうち、
この箇所が特に好きだと思った。この本がフランスで刊行されたのは、1994年だという。その時点で『くだらない、滓の極み、フェミニズムの成れの果て』と、形骸的なフェミニズムのバカらしさに気づけるというか、多様性とかそういうところの一歩先を進んでいる、みたいなところが改めて考えてすごいなと思った。というのも、そのあとに『コンビニ人間』を読んだから、というのもあるかもしれなかった。
『コンビニ人間』のあらすじは、(サイコパスに近いような傾向の)異常な性質を持った主人公が、社会に適合しようと生き方を探る話。コンビニバイト歴18年の36歳、古倉恵子はコンビニ店員としてアルバイトで働いている。あまり感情がなく、状況を観察して記載しているような語りだった。
『コンビニ人間』では、未婚でアルバイトの古倉に対して「普通の」人間である周囲の人々(同級生)から厳しい態度を向けられる(コンビニでは仕事はしっかりできているのであまりきついことは言われない)。
このシーンは特に残酷で悲しかった。この作品で被害者意識の強い弱者男性として描かれる、白羽さんという男性も似たような、女性蔑視的な厳しい意見を吐くが、作中でまともな人とされている人々ですらこういうセリフを言っているのが、この頃はこういう時代だったのかと思ってとても悲しかった。この本が出たのが2016年だと読み終えた後に知り、衝撃を受けた。まだそんなところにいたのかよ、と。かなり年上の知人でも非正規の未婚の女性は何人かいるけど、そういう人がつい最近までこういう扱いをされていたというのがあまりにも悲しいことだった。わたしの身内はやさしかったし、もしそういう人がいても全然そういうのもありやんな、という感じだった。わたしも昔から、他人のことに関しては全然ありやんな、と思っていたが、自分自身のこととなると、社会の価値観を内面化しすぎていて、普通にならなければ…という強迫観念があった。作中、白羽さんは、社会の価値観を内面化している一方でそれには適応できず、周囲に責任転嫁し攻撃している。社会に適応できずに社会の価値観を内面化している人は他者への攻撃に走るか、自分に責任を感じて自殺するかのどちらかだろう。わたしは2020年くらいまでまともな本を読んでいなかったせいで普通への強迫観念があったのかと思っていたが、日本全体としてあほというか、微妙な考え方の人が多いのが主流で、多様性とかも輸入してなかったらしく、わたしがそういう考えを持つのも当然だった。
#多様性を考える