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微苦笑問題の哲学漫才23:フロイト&ユング編(後編)

 微苦:ども、微苦笑問題です。
 苦:またまたフロイトと弟子たちの話です。もうまさに反復強迫ですね。
 微:自我(エゴ)の話の途中で終わったので、まず確認しておきますが、「意識する私」という概念は、精神分析学においては「自己」もしくは「自己イメージ」として明確に区別されていることです。
 苦:自己チューでもないし、自意識過剰でもないと。
 微:はい、もう一つ言うと国語の教科書に出てくる、日本語の一般的意味の自我とは違うんです。
 苦:碇シンジくんの立場はどうなるんだ?
 微:今の日本の男性のほとんどはあんなもんじゃないですか。むしろ自己定義というか評価基準がはっきりしすぎるとアスカになる。
 苦:それで覚醒剤に手を出したんだな。
 微:それはASKA被告の方だよ!! 次にエス(イド、無意識)は無意識に相当しますが、正確に言えば無意識的防衛を除いた感情、欲求、衝動、過去における経験が詰まっている部分です。
 苦:オレの意識化できる頭にはそれらしかないけど。
 微:だから衝動的なんです。
 苦:でも「むしゃくしゃしてやった。こんなことになるとは思ってなかった。今は反省している」なんて言い訳するような事件は起こしてないよ。
 微:自慢することではありません。エスは欲動エネルギーに満ち、人間の動因となる性欲動(リビドー)と攻撃性(死の欲動、タナトス)が蠢き沸騰している部分と考えられています。
 苦:欲望のテーマパークだな。ひらパーの火山みたいに止まってたらいいけど。
 微:あんな劣化コピーとはレベルが違います。フロイトはエスにある、抑圧された性欲動がヒステリーとなって現象すると考えました。
 苦:それって、松田聖子やベッキーには生じない、ということが言いたいのか?
 微:それでもいいですけど。リビドーは、日常的には性的欲望または性衝動と同義に用いられていますが、これはフロイトが「性的衝動を発動させる力」と定義したことが一般化したからです。
 苦:まあ、上野千鶴子的には「セックスできなくて死んだ人間はいない」と、本能に基づく欲求と区別しろ、ということですか。オマエには言われたくないけど、核心だよな。
 微:ただ、人間の場合、本能のまま生きることは二重の意味で不可能です。乳児期にサルとしての本能は壊れますから文化を学ぶ必要があります。
 苦:ああ、モロー反射とかな。
 微:また、純粋に本能のまま行動したとしても、意識が過剰な物語を紡いでしまうんですね。弟子のユングはリビドーを「すべての本能的エネルギー」と広く捉えています。
 苦:いや、ゲス不倫騒動じゃないけど、カップルは生殖のために頑張っているわけではないしね。
 微:そこをフロイトは理解していましたね。彼の心理的=性的発達段階を順次並べると、母の乳房に吸い付くことに快楽を感じる口唇期に始まって「肛門期→尿道期→男根期(エディプス期)→潜伏期→性器期」と、下ネタのオンパレードです。
 苦:セクハラがキラーワードになった現代の人間なら少なくとも、一歩は引くわな。
 微:おっしゃる通りで、フロイトはウィーン上流階級の御婦人方に毛嫌いされてました。しかし、彼のクリニックは繁盛し、その顧客の大多数はその上流階級の御婦人たち自身でした。
 苦:つまり、国は違えど、当時の多くの女性がヴィクトリア朝的性道徳に抑圧されていたと。まあ、金と時間のある夫は愛人のところに通っていたのもあるだろうし。
 微:「フロイト=リビドー論者」という偏見もありますが、時代の実情がそうだったのです。
 苦:上品な貴婦人というガラスの仮面を付けて演じるのは大変だな。その点、カネと名誉しか考えていないIOC会長は楽でいいよな。自然な演技すら必要ない。
 微:逆に第2次世界大戦後のアメリカのように、性の自由化・オープン化が進むと病状としてのヒステリーは消滅し、ただの「女性がおこす癇癪」に意味が変わりました。
 苦:それさえ死語だよな。上野千鶴子に吊し上げられるぞ。
 微:くわばらくわばら・・・。次の衝動タナトス(死の欲動)はリビドーの対義語にあたり、人間の冒険心やチャレンジ精神の根源と考えてもいいでしょう。
 苦:まあ、これなしにテーマパークの絶叫マシン人気は説明できないよな。
 微:破滅的人生を選ぶことになる衝動ともなりますが、生命の危機を感じた時に「これ以上ない充実感」というか「生きている実感」を感じるのが冒険家、登山家、格闘家です。
 苦:滝沢カレンは料理界のタナトスとエロスの豪快すぎる権化だな。
 微:滝沢カレンで思い出しましたが、日本語では昔、タナトスが「死の本能」、リビドーが「生の本能(エロス)」と訳されることが多かったんです。
 苦:なんで滝沢カレンなんだよ?
 微:いや本能で料理しているようなんで。本能の語を当てると「動物的生存のために遺伝的に組み込まれた行動パターン」という意味合いが強くなって誤解を招きかねない面がありました。
 苦:「保健」の教科書でも、優秀なはずの執筆者も検定官も、欲求と欲望を混同しているもんな。
 微:そうです。喉の渇きや睡眠など、満たさないと生命に関わるのが本能が求める「欲求」。満たされなくとも命には別状ないけれども、生きている意味を失ってしまいのが「欲望」。
 苦:上野千鶴子の言ってたやつだな。「マスターベーションして死ね」もそうだし。
 微:別の角度から説明すれば、一定の線で臨界点=満足が訪れるのが欲求で、上限も際限もないのが欲望です。さらに言うと、欲望は欲求が挫折を経て変質したものですから、本来の欲求の対象とはズレたものに執着する病的な嗜好でもあります。
 苦:あけすけな例だけど、ハイヒールにこだわる男とか、下着泥棒とか、二次元世界のアニメ絵の女子にしか興味のない変質者やヲタクを見ていると、よくわかるな。資本主義の飽くなき営利、目的なき蓄財も欲望のなせる業(わざ)、要するにビョーキだな。
 微:まあ、そうです。ですので、日本語でも「欲動」や「衝動」の訳語が広まりつつあるわけです。それと、それによってクライエント本人の葛藤に焦点が当てられることになるからです。
 苦:タイガー・ウッズはゴルフ以上に「セックスが我慢できない病」を告白して貢献したな。
 微:そっちよりも、重い鬱病患者が医師にしばしば「死にたい」という言葉を発する方ですね。
 苦:本当は行きたいと。「リスカブス」は死にたいんじゃなくて「別れたくない」と。
 微:際どい表現ですが、ずばりです。タナトスを「死の欲動」と訳すことで、クライエントに「死にたい気持ちに駆られる」と言わしめるものを「生の欲動」との二元論で説明できます。
 苦:せめぎ合っているけど、死は気持ちの深さを示していて、本心じゃないと。
 微:臨床現場で頻繁に聞かれる「死にたい気持ち」と「生きたい気持ち」の葛藤もそうです。
 苦:「食べたいけど痩せたい」「勉強したくないけど偏差値高い大学行きたい」わがままの方がましだな。
 微:「死の欲動」概念に気づく前のフロイトは、「愛する者の死を願う」両価的感情を伴う殺害願望から自殺を説明しようとしました。
 苦:ミュンヒハウゼン症候群じゃなくて?
 微:これは献身的な看護の果てに夫や母を看取った女性が「自分が殺してしまった」という自責の念に取り憑かれる症例からの判断でした。
 苦:それって、その親が毒親で心を鎖で縛ってるんじゃねえの?
 微:つまり「看護していたふりをして死なせた」「看護相手を死なせてしまった自分を責め苛む」というクライエントの意識を「攻撃性」の内向と解釈していたのです。
 苦:それって、無意識の「高すぎる自己評価」の反動という気もするが。
 微:次に移りますね。また同じ頃使用していた「破壊衝動」という言葉も混乱を招いていました。
 苦:オレの息子は「破壊衝動の塊」と言われたことがあるぞ。(※悲しいけど、これも実話です)
 微:フロイトが最初に「死の欲動」という語を用いたのは1920年の『快楽原則の彼岸』で、彼は人間の精神生活にある無意識的な自己破壊的・自己処罰的傾向に注目しました。
 苦:この1920年には意味があるのか?
 微:はい、第1次世界大戦帰還兵の多くが発症した神経症です。この時期に彼の考え方は「快楽が生」から「死の欲動との闘いが生」へと大きく転換したとされています。
 苦:譬えるなら「明るい家族計画」から「人類補完計画」へだな。
 微:彼は神経症における強迫観念、第一次世界大戦帰還兵の心的外傷のフラッシュバック現象などから、従来の持論であった快感原則からは説明できない心理を見出したのです。
 苦:「超越者との実存的交わり」よりは生産的な発見だな。フロイト先生の圧勝。
 微:「死の欲動」理論はそれ以後のフロイト理論を改定する大きなきっかけとなっていきました。
 苦:ひょっとして、「アラビアのロレンス」のファンだったのかもしれないな、あいつ典型だし。
 微:彼の『死の欲動 臨床人間学ノート』には「死の欲動」について、「自我が抵抗しがたい衝動」「「快楽原則」に従わず反復そのものを目的とし、エネルギーが尽きるまで繰り返される」「欲動はこの地点から巨大な破壊エネルギーを手に入れる」「生の欲動に先立つ」等々の、恐ろしい表現が並んでいます。
 苦:それを冷静に記述できるフロイトの方が怖いのは私だけでしょうか?
 微:みんなそうでしょ。死の欲動はフロイトの『快感原則の彼岸』や『自我やエス』から見ると、一般的にはエスにおいて、タナトスはリビドーとの混合で対象に備給されると書かれています。
 苦:恐ろしいけど近づきたい、見たくないけど見てしまうというやつだな。
 微:しかしその死の欲動が多くなると、サディズムやマゾヒズムのような形態として現れることもあります。
 苦:オレにはわからないけど、「もっと強く叩いて!!」の世界か。
 微:死への欲動は、そうやって肉体の筋肉活動を通じて発散される面もあります。ですが、それが自分自身の身体の怒りと発作として症状として現れることも確認されています。
 苦:「ぼたんとばら」のどっちに感情移入しているかで、判断できるな。オレ虐められる方ね。
 微:吉田戦車の『いじめて君』もですね。また、エス(無意識)は幼少期における抑圧された欲動が詰まっている部分でもあります。
 苦:自分を苦しめているものに憧れる、ってやつか。
 微:いわゆるエディプス・コンプレックスもその一つで、このエスからは自我を貫いてあらゆる欲動が表現され、これを自我が防衛したり昇華したりして操っているのです。
 苦:肉体を苛むというマゾヒズムを満たすためにプロレスラーになるのも昇華に入るのかな?
 微:最後に超自我(スーパー・エゴ)は自我とエスを跨いでおり、ルール、道徳観、良心、禁止、理想を自我に伝える機能を持ち、意識される時も意識されない時もあります。
 苦:それが欠落している警察官や教員が増えたが、理由はあるの?
 微:理想的な親のイメージや倫理的な態度、その逆に親からの厳しい躾などの深い精神的な傷から形成されるので、「幼少期における親の置き土産」と表現されます。
 苦:聖人のような人って、どんな教育というか心の傷を受けたんだろうな。
 微:逆に言うと、親は相反する像を子どもに適切に植え付けないといけないのです。
 苦:ルソーでさえ自分の『エミール』通りに子育て・教育した人を叱っていたもんな。
 微:無責任男は放置しましょう。フロイトは、超自我が自我の防衛反応を起こす原因と考えました。自我単独で防衛や抑圧をしたりするのは稀で、逆に超自我はエスの要求を伝える役目も持っています。
 苦:ルソーのスーパー・エゴは東電のセキュリティ並みのレベルだったと。
 微:他にも超自我は自我理想なども含んでいて、自我の進むべき理想を自覚されない形で指し示していると考えています。
 苦:自己肯定感だけ肥大したバカより、振り切れたルソーの方がいいな。隣にいたら嫌だけど。
 微:さらにフロイトは超自我は夢を加工し検閲する機能を持っているので、彼は超自我を自我を統制する裁判官や検閲官と例えてもいますし、だらか『夢判断』を書いたわけですが。
 苦:つまり、それだけフロイト自身がユダヤ教の超禁欲的道徳に苦しめられ、フロイトが自己の魂の苦しみ、葛藤と和解するための物語として精神分析学が書かれた・語られたとまとめていいのか?
 微:いきなりまとまってしまいましたね。放映開始5分でスペシウム光線発射みたいな感じです。
 苦:ここは庵野のように、ひたすら無意味な会議を延々と流すしかないな。
 微:じゃあ、ユングに移ります。彼は名門バーゼル大学で医学を学びました。
 苦:バーゼル大学と聞くとニーチェが浮かぶ・・・
 微:ユングは生理学的な知識欲を満たしてくれる医学や、歴史学的な知識欲を満たしてくれる考古学に興味を抱きました。やがて人間の心理と科学の接点としての心理学に道を定めたのです。
 苦:だから神話的な概念が出てくるのか。
 微:精神疾患の人々の治療にあたるとともに疾患の研究も進め、特に当時は不治の病とされた分裂病(統合失調症)の解明と治療に取り組み、一定の成果を上げてました。
 苦:篠山城公園をぐるぐる回っていたんだな。
 微:2021年の聖火回転ずしじゃない、リレーと違います。そんな彼の前に『夢判断』の著者にしてヒステリー患者の治療と無意識の解明に力を注いでいたフロイトが現れたのです。
 苦:つまり出会いは運命だったと。
 微:ユングは歴史や宗教にも関心を向けるようになり、フロイトが「性」に還元するリビドーを遥かに広大な意味をもつものとして再定義しました。
 苦:まさに臨床研究だな。
 微:さらに「無意識」もフロイトには個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」でしかありませんでしたが、ユングにとっては「人類の歴史が眠る宝庫」でした。
 苦:村崎百郎かよ!! それで訣別は必然だったと。
 微:ユングが担当した精神疾患者らの語るイメージに不思議と共通点があり、さらにそれらが世界各地の神話・伝承とも一致する点が多いことにユングは気づきました。
 苦:全員、ドラクエのヘヴィーユーザーだったそうです。
 微:竜王を呼んでからウソを言えよな!! ユングは、人間の無意識の奧底には人類共通の素地=集合的無意識が存在すると考え、共通するイメージを想起させる力動を「元型」と名付けました。
 苦:それって、現生人類の前頭葉のスペックで、時代や場所を越えても共通なだけじゃないのか?
 微:そう考えないのです、ユングは。彼の理論で中心的な意味と働きを持つ元型は、意識の中心としての自我(エゴ)の元型と、心(魂)全体の中心として仮定される自(ゼルプスト)の元型です。
 苦:ゼルプストが欠落すると綾波レイになると。
 微:包帯でも巻いといてください。代表的な元型には「自我」「影」「アニムスとアニマ」「太母(グレートマザー)と老賢者」などがあります。
 苦:これらって、後天的に開発され実現した可能性と、開発されなかったために潜在的可能性にとどまったものの組み合わせだろ。アニムスとアニマなんて両方開花させると和田アキ子になってしまうぞ。
 微:ユングは1948年に共同研究者や後継者たちとともに、チューリヒにユング研究所を設立し、ユング派臨床心理学の基礎と学統を確立しました。
 苦:高額な家元認定料とフランチャイズ料を徴収したそうです。
 微:コンビニかよ!! またアスコナでのエラノス会議において、深層心理学・神話学・宗教学・哲学など多様な分野の専門家・思想家の学際的交流と研究の場を拓きました。
 苦:ゴメン、やっぱり個人的には心理学は合わない。というかどうしても疑似科学としか思えない。
 微:でもフロイトがいなければ『羊たちの沈黙』も生まれなかったんだし、まあ、性欲理論で暴走したヴィルヘルム・ライヒや竹内久美子よりは信頼できるというか読めるということで堪忍してください。
 苦;まあ、河合隼雄や中井久夫の弟子たちに吊るし上げられるよりいいか。

作者の補足と言い訳
 この後半では「証明不可能なもの」であることに開き直って、社会に害悪をまき散らす悪人の実名を何人か挙げました。ある程度勉強した人なら、「話のネタね」で済むのですが、「自分が知りたかった真実が書かれている」と勘違いする不勉強な人が多いですので実名で書きました。というのも、田嶋陽子を「フェミニズムの権威」と誤解していることに気づかない一般人がやたら多いことに愕然としたからです。
 フロイトの理解モデルもあくまでモデルですが、ユングに到ると、もうこれは神話というか、半分オカルトです(人によってはオカルトと断言しています、小谷野敦など)。「獲得形質でも遺伝しないのに、イメージや記憶が遺伝するわけあるか!」と大声で叫びたいのですが、長年、教育相談を担当していた手前、「嘘も方便」的に臨床心理学も「使える」と認めてきましたが、臨床心理学の講座が異常に多い日本では、その異常さが自覚されないのだなあ、と思うと悲しくなります。まあ「回復する」例があるからいいのですが。
 ここまで書くと、勘の良い人なら気づいているかも知れませんが、神の視点ではなく人間の視点から人間を観察・分析しても、生物学のような分析や観察はできないということ、つまりハイデッガーの『存在と時間』と同じ構図に心理学は嵌ってしまい、客観性はいくら症例やデータを集めても担保できないとうことです。自らを神の地位に引き上げるなら別ですが、それに成功したら、それこそ『羊たちの沈黙』のレクター博士です、人間を異物=食物として摂取できるくらいの。

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