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#223 比較するなら全て比較する
教員は無意識のうちに子どもたちを「比較」しています。評価することが求められるためです。子どもの現状を評価し、指導に生かす。こうして目指す児童像の実現に努めます。しかし、この「比較」に問題が隠れているように感じるのです。
他者との比較
A君の漢字の習熟を評価する場合、何を基準にしますか?
テストに示されている平均点?学級の平均点?担任として設定した点数?
比較するためには基準が必要です。その基準設定に他者を用いることが多々あります。平均点などはまさに、他者との比較になります。学級のみんなが80点以上なのに、50点の子がいた場合、どう受け止めていますか。「みんなより30点も落ちている。」これは他者との比較によるものです。
比較の功罪
「比較」することによって到達度が分かり、評価が可能になっている側面があります。もし、何とも比較することができなければ評価はできないでしょう。現状を記すことしかできないと思われます。「比較」は、教師にとって必須なものとなっています。
一方で、比較の仕方に問題があると感じている方も多いのではないでしょうか。
この子は国語ができる。この子はゲームができる。どちらの子の評価が高いですか?
学校の指導内容に含まれるものができる子の方を、「いい子」「できる子」と評価していませんか。「それが教師の仕事だろう。」と反論が聞こえてきそうですが、その仕事に支障をきたす可能性があると思っています。
比較の影響
一部文の比較によって優劣を判断したはずなのに、その一部文がいつの間にか、一人の人間の「全て」のように錯覚し始めることがあります。
A君はBができない。だから、○○な子だな。○○な子だということは、きっとCもできない。
仕事柄、どんな子かを捉える必要がありますが、その捉える解像度がかなり荒くなる可能性があります。場合によっては荒いどころか間違ってしまうことも。
比較するなら全て比較する
どうせ比較するなら「全て」を比較しませんか。
僕らは何か買う時、値段やデザインなど、すべての面を比較して買いますよね。しかし、人と何かを比べる時は、一部だけを取り出して比較しがちです。
全てを比較すると、子どもを捉える解像度が上がります。そして、全てを比較すると、自然と子どもの良い面に目が向きます。
子どもの良さを見つけるのが得意な先生は、たくさんの比較ポイントを持っています。そして、そのポイントをかけあわせることで、その子そのものを捉えよとしているのでしょう。
一部文で全てを決めつけるような先生は信頼されません。
様々な場面での自分の姿を見てくれる先生を子どもは信頼するのではないでしょうか。