「門前他者」の自己了解
私は出生前診断を「門前他者の了解問題の極北」としてとらえている。ここでいう門前他者とは、いまだ門を通過していない他者、つまり自他未分化の状態の他者である。より具体的には、へその緒を通してつながっている、出産前の赤子のことである。私の現在の性別は男なので、どうにもその感覚をつかみ切れていない恐れはあるが、間違いの謗りを恐れずに言えば、どうも母親にとってこのへその緒でつながった赤子という存在は、自分の分身のようなものとして、大変いとおしく感じられる場合が多いようである。今、分身という言葉を用いたが、まさしくこの言葉通り、おなかの中の赤子というのは自分そのもの、文字通り自分の血肉を分けた存在であって、どうあっても他者とは思えないようだ。(もちろんそう思わない母親もいるであろうことは容易に想像できるが、まだ少数派であるように思われる。)出生前診断というのはこのような状況の母親に、その赤子の他者性を否応なく突きつける行為になりうる。例えば、赤子が自分とは違って目が見えない、自分とは違ってダウン症であるようだという出生前診断がなされた場合、それは赤子という存在がこの先、生まれたときから自分と全く異なる人生を歩むことを予感させるし、この赤子のその後の人生が幸せかどうかを推し量ることは非常に難しくなる。このことは非常に両親(特に赤子とつながっている母親)を混乱させるのではないだろうか。つまり、自分の分身だと思っていたものが理解不可能な他者であったと突きつけられるのである。そして私はここに、他者の了解・理解を突きつけられるもっとも極端な例の一つをみている。
そのような状況に置かれたとき、どのような行動を人はとり、またとるべきであろうか。多くの場合、少なくとも自分の人生と似た人生、あるいは自分を赤子に投影し、自分の理想としていた人生をその赤子に歩ませようとするのではないだろうか。もし赤子に障害があるのであればそれを直し、自分=普通に近づけたいと思うのではないだろうか。もし身長にコンプレックスを持っている親であれば、より積極的に身長を伸ばそうとするかもしれない。自分が知っている人生は自分の人生だけであり、少なくともその人生で子供をもうけられるくらいには「成功」しているのであるから、その人生のレールをトレースさせた方が親としては安心というわけであろう。だが、いずれにせよ、程度の差こそあれ、そこに現れるのは自分の分身としての子供であり、それに投影される自分のエゴである。これは他人に対しても同じである。他人を自分と同じものと考えて、自分と同じような感情の動きをしていると考えると、途端に齟齬が生まれてくる。
ここで私が提案したいのは、非常に当たり前のことではあるが、子供は他人であることを親は認めるべきではないかということである。たとえ自分の遺伝子を半分持っていても、たとえへその緒でつながっていようとも、子供は究極のところでは他人であって、道端ですれ違う他者と何ら変わらない存在なのではないか。確かに、科学的に見れば、遺伝子的に「近い」し、子供を最初に受け止めた親という存在はとても「大きい」。けれどやっぱり子供は「授かった」ものでしかなく、孤独に生まれて孤独に去っていくものではないか。そう考えなければ、子供は無意識のうちに親の支配に取り込まれて、そこから一生抜け出すことはできなくなってしまう。そこに自由などないのではないか。これは理屈の外で考えられるべきことである。私も、私の親も、私の祖先も、この広大な共同体の何層にも重なる網の目の中に、孤独な存在として生まれ落ちてきたのだ。生まれ落ちた赤子は、その時その時で共同体のネットによって暖かく歓待され、ときに冷遇される。もしかすると網目の間をすり抜けて、落ちていってしまった命もあったかもしれない。だが、少なくとも私たちは、こうして生を授かり、それを受け止めてくれた手があったのだ。これを下らない神秘主義、科学に反するとして切り捨てることは容易である。だが少なくとも、私たちはこのネットの上で数回弾んだのちにまた網目のはざまへと飛び立っていかなければならない時が来て、その時は受け止めてくれたこの網の目の歓待に感謝しながらも、やっぱり孤独なのである。
少し抽象的に語ってしまった気がするので、もうすこし具体的に言い直せば、こうして子供を他者として承認することが親の成長ということなのではないか。もちろん、科学によって遺伝の仕組みが明かされている現代にそれは非常にむずかしい。だが、ひとたびいわゆる「未開」の民族の親子の関係を想像してみれば、そこには「生れ落ち飛び立っていくもの」としての魂の神話があり、そのように考えることで親は子供を自分の意思を超えたものとして、容易に他者として巣立たせることができているのではないか。むしろ、科学的に考えた結果として、分身たる子供の扱いの問題が深刻化してしまっている「近代化」された私たちの社会のほうこそ異常なのではないかという気さえ私はするのである。