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自然法爾
ある授業を受けたので、その感想文をここに転載する。
なんだ感想文か、と思われた方、できればこのタブを閉じずに最後まで読んでいただきたい。感想文とは言えどもその中身は充実していることはこの無名の私が保証する。是非とも最後までお読みになってからご批判頂きたい。
今回の授業では、人間の死をどう捉えるか、という話題から、個々人の死生観についての話に移行していったように思われる。授業で発言されていた方々の死生観について、私なりに解釈してその場で応答したつもりではいるのだけれど、一人一人の死生観を把握できたとは到底思えない上に、私の応答が不正確かつ抽象的で、十分にその内容が了解されていないのではないかと危惧している。そこで、本レポートでは、私が授業中に述べ、応答した、死生観にかかわる事柄を、できる限り具体的に、そうでなくともわかりやすく述べたいと思う。が、その前に、おそらく私の発言の中で多分に非科学的であり、誤解されたと思われる部分に、「ある程度の」科学的な裏付けをすることから始めたい。その発言は、「人間はたぶんいつも眠いのであって、何とか外界からの刺激の反復によって起きており、起きていて、生きているほうが異常である。睡眠は死に近いものだと考えている」というものである。私の記憶するところでは、この発言に対し、「僕は睡眠は単に休息だと思いますが」という反論・疑問が発言された。この時私は「誤解された」と思いながらも、その後話の流れから十分に応答できず、後悔しているので、今ここにおいてもう少し詳しくお話ししたい。ただ、皆さんもご存じのこととは思うが、現代の科学においては未だ睡眠については十分に解明されていないため、以下に述べることはあくまで私(非科学者で科学に対し浅学な人間)の仮説であり、そこまで科学的とは言い切れないことは先に述べておきたい。
さて、花粉症の薬の一つに、抗ヒスタミン薬といわれるものがあり、その副作用として眠くなるという効果があるのはご存じだろうか。身近なところでは「ザジデン」やアレルギー専用鼻炎薬である「アレグラ」などが有名である。(正確には現在利用されてる抗ヒスタミン薬は第二世代といわれ、眠くならないと謳われているものなのだが、それは単に脳内のヒスタミン受容体には作用せず、鼻にあるものだけに作用するように抗コリン作用を低減し、血液・脳関門を通過しにくくしたものであるので、本質は変わらない。)簡単に言えばヒスタミンというのは覚醒作用を持ち、いわゆる覚醒系といわれる脳の部位を活性化させるものであるのだから、これが受容されることが阻害されれば眠くなるのは当たり前であると結論付けたくなるかもしれない。が、確かに抗ヒスタミン薬は「覚醒を阻害する」かもしれないが、「眠くなる」と言い切っていいわけではない。つまり、「起きるきっかけとなる刺激は低減される」ので、「寝ている人が起きにくくなる」かもしれないが、「眠くない人を眠くさせる」効果はないのである。しかし現に多くの人間が抗ヒスタミン薬で眠くなっているわけである。つまり「人間はいつも眠く、刺激によって何とか覚醒を保っているのではないか」と考えることもできるのではないだろうか。(ただ、植物状態、つまり外界からの刺激がないとされる状態の人間でも覚醒状態とそうでない状態の変化があるという研究もあり、一概に結論付けることはできないので、十分な応答とは言えないかもしれない。)これが、「人間は基本的にいつも眠く、寝ているほうが平常の状態で、起きているほうが異常である」と私が発言した一応の根拠である。つまり、私は睡眠を休息とは考えておらず、むしろ起床のほうが異常と考えているので、その点において睡眠は死に似ている、という発言をしたのである。もし歴史というものが存在するのなら、私の一生のは非常に短いものでしかなく、そのような短い時間しか起こらない現象を正常と考えるのは少し偏ってはいまいか。むしろ、私が不在である、私が死んでいる状態の世界・時間のほうが圧倒的に長く、安定した平常状態なのではないだろうか。
(なお、ここで詳しく述べることはできないので、詳細は期末レポートで述べる機会があれば述べたいが、抗ヒスタミン薬はてんかんの痙攣閾値を低下させる(痙攣が起きやすくなる)とされており、また、入眠に際しては、腹外側視索前野のGABA作動性神経からGABAが放出され、結節乳頭核のヒスタミン作動性神経系の働きを抑制することが知られている。さらに、ASD者の脳ではGABA濃度低下による神経活動の抑制機能の変化が報告され、特に抑制機能の低下が、刺激の時間処理精度の過剰な向上を促し、感覚過敏を引き起こすことが判明してきている。安易な結びつきは避けるにしても、このことがひいては「世界が迫ってくる」といった体験や「主観的時間」を長く感じるといった現象を引き起こすのではないかと私は考えている。統合失調症や離人症における事例との関係性や、この部分と宗教・哲学の関連性は、もし時間が許せば期末レポートでの課題の一つとしてもよいと思っている。)(ちなみにカフェインはアデノシンの代わりにプリン骨格をもつものとしてアデノシンA2A受容体へ結合し、アデノシンが結合することを阻害してGABAの遊離を抑制することで眠気を抑える、と考えられている。)(またこれは膜・皮膚・アレルギーと免疫不全の時代といった問題とも対応してくるだろう。)
さて、ここまででは非常に「似非」科学的な側面が強いレポートになってしまっていると思われる方もいるかと思うので、閑話休題、話を本筋に戻して、もう少し科学から離れた議論をしよう。以下、多分に非科学的な議論が展開されることをご了承願いたい。突然だが、自然法爾という言葉がある。親鸞が齢86にして、『自然法爾の事』の中で述べたことである。少し引用しよう。
「自然といふは「自」はおのづからといふ行者のはからひにあらず「然」といふはしからしむといふことばなりしからしむといふは行者のはからいにあらず如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ...法爾といふはこの如来の御ちかひなるがゆゑにしからしむるを法爾といふなり法爾はこの御ちかひなりけるゆえにおよそ行者のはからひのなきをもつてこの法の徳のゆゑにしからしむといふなりすべてひとのはじめてはからはざるなりこのゆゑに義なきを義としるべしとなり」
意訳が過ぎるという批判を恐れずにこれを私なりに解釈すれば、わたくしという存在・現象は、如来という場、如来という存在による「誓い」ゆえの「法」によって、「おのずから」なるということではないか。また、これは黒崎宏も指摘するところだが、西田幾多郎は『場所的論理と宗教的世界観』の中でこの言葉を引いてこんなことを言っている。長くなるが2つほど引用しよう。
「444_1:キリスト教の神の言葉に於ては、それが超越的人格神の啓示として、絶對意志的に、裁く意義を含んでいる。我々は信仰によって義とせられると云はれる。之に反し、名号に於ては、佛の大悲大慈の表現として、我々の自己は之によって救はれる、包まれるといふ意義を有って居る。その極、自然法爾と云ふにも至るのである。此語は人の考へる如く所謂自然の意義に解せられてはならない。」
「462_2:自然法爾的に、我々は神なき所に眞の神を見るのである。今日の世界史的立場に立って、佛教から新らしき時代へ貢献すぺきものがないのであらうか。但、従来の如き因襲的佛教にては、過去の遺物たるに過ぎない。普遍的宗教と云っても、歴史的に形成せられた既成宗教であるかぎり、それを形成した民族の時と場所とによって、それぞれの特殊性を有ってゐなければならない。何れも宗教としての本質を具しながらも、長所と短所とのあることは己むを得ない。唯、私は将来の宗教としては、超越的内在より内在的超越の方向にあると考へるものである。」
私はここに、キリスト教思想と親鸞思想のある程度の合一を見る。つまり、自然法爾とは、「神なき所に眞の神を見る」ことなのである。これを私の授業中の発言に言い換えれば、「神という理想、神という虚構に対して反復的に欲望し、上へ上へと昇っていこうとする精神の現象、これが私である」ということである。しかし以前のレポートでも述べた通り、「神」という言葉はいささか古くなってきている。しかしいずれにせよ、「虚構の自分」や「虚構の他者」という「理想」に対して反復的に欲望することで自己を保とうとする行為は、現代においても散見されるのではないか。それは入り交じり、非常に複雑な様相を呈しているものの、基本的な部分は変わらない。同じことを何度も言い換えて言いたい。虚構への反復する欲望は共同体の維持に欠かせないと私は考えている。その共同体は、家族でもよいし、国家でもよいし、もっと言えば「自分」という共同体(ミクロコスモス)でもよいのである。授業中でも述べたように、私たちは燃え上がる火という現象の、永遠に続くかと思われるその現象の、小さな一つの火の粉である。しかしその火の粉が、「神」という「理想」の、「神」という「虚構」のもとに集まり、互いに互いの「理想」「虚構」をみることで、法という門が、境界が生まれ、その枠組みが共同体というネットを生むのだ。そして、そのネットがあるから、次なる火の粉は受け止められ、歓待されるのである。そしてそれゆえに、火の粉は一瞬にして消えたとて、火が消えることはないのである。
「神」という虚構があって初めて、私たちは法の下に一つの個体となりえるのだ。
近代の科学は、火が燃えるという現象を、因果関係で把握しようと努める。火が燃えるのはなぜか、その原因の原因は何か、そのまた原因は何か、何か、何か、そこに開かれるのは無限の後退であり、延々に続く因果の連鎖である。そうではない。そうではなく、後退ではなく前進が、因果の後退ではなく虚構の前進が、物理法則ではなく幻想が初めにあったのである。よく科学は宗教と同じといわれる、確かに似ているところは多分にある。しかしその科学という宗教は後退する現実主義という意味で非常に画期的で、それはまさしく下へ下へと後退する重力であったのである。勿論この重力の研究は捨てるべきではない。しかし重力ばかりに目を向けるべきでもないだろう。偉大なる祖先がその叡智を惜しむことなく注ぎ込んだのは、なにも科学だけではない。精神・国家・宗教、これらの叡智も大切にしていかなければならない。わたくしという存在を問うたときには、証明ではなく体認が、切断ではなく運動が、その正しさを裁定するのである。