音楽と境界
アンビエントミュージックに関しての本を5冊ほど読んだ。そこで最初に思い出されたのは、柄谷行人の『日本近代文学の起源』という本であった。
今回はこの本の要約から始め、音楽の問題へと論を接続しようと思う。
さて、この本の中に、「風景の発見」という章があって、そこでは「風景」が日本で見出されたのは明治20年代であると述べられている。どういうことか。本文に挙げられている例を採用すれば、日本古来の風景画とされる「山水画」は、明治の近代化に伴って、「風景画」という概念が入ってきたときにはじめて「山水画」と呼ばれるようになり、 風景画の中の1つのカテゴリーとして分類されるようになったという。端的に言ってしまえば、これが、「「風景」が日本で見出されたのは明治20年代である」ということの具体的な意味である。
しかし、このことは単に分類学上の問題ではない、というのが柄谷の認識だ。「風景の発見」に続く「内面の発見」という章において、視覚の中に投影される像を「風景」として認識するには、その中心に自分がいる、ということを認識しなければならな いという前提が示される。つまり、風景を風景として認識するためには、それをながめている自分を「内面」化し、「外界」と対峙する意識が必要ということだ。そして、この「内面」という概念も、「風景」や「文学」と共に、この時代に西欧から持ち込まれたものだとされる。
回り道してしまったが、私はここに音楽の問題を持ち込み、アンビエントミュージックとの接点を見出したい。いうまでもなく、SONY のウォークマンに始まり、今日の私たちは音楽を持ち運ぶ時代に生きている。多くの人が「歩き」ながら、風景を見ながら、音楽を聴いている。だが、このとき、果たして私たちは音楽を聴いているだろうか。確かに聞いている。鼓膜は震えている。いや、もしかすると、聴いている音楽が風景を変質させてしまうこともあるほどには、音楽を聴いている。ある音楽を聴きながら眺める 夕陽は、聴かないで眺めるそれに比べて幾分か特別に思え、質が違って感じられることだろう。
いや、もはや現代はそれほど生易しくはないかもしれない。私たちの「内面」、私たちの「気分」、私たちの「情動」は、持ち運ぶ音楽のリズムの反復によってなんとかその統一性を保ち、私は風景に取り込まれることなく、私としてあることができる。私が世界を取り込むか、世界に私が取り込まれるか。その極めて危うい境界の狭間で、なんとか私を保っている。そんな状況になってきているというのは、大げさだろうか。私はそれほど言い過ぎとは思わない。
ここで今回読んだアンビエントミュージックに関する次の三文を思い出した。以下、アンビエントミュージックの定義を再確認する意味でも、引用する。
「環境に作用する音楽としての環境音楽のコンセプト、「アンビエント」を考案する。それは、たとえば、 ミューザックが無味乾燥な音楽によって、ある空間を、ただ隙間を埋めるためにだけ 垂れ流すのとは異なり、わたしたちを「包囲する」さまざまな環境を、音によって、その元の環境に即した形でマスキングするような音楽だといえるだろう。」
「イーノのアンビエント・シリーズは、第一作の『ミュー ジック・フォー・エアポート』のような、その 徹底した機能主義から、情景的、映像的な作品、そして内面 で体験する作品へと変移していくが、それは環境のように「在る」作品から、より「聴くこと」が創造的に 音楽を発見、あるいは体験するような行為を伴う作品への移行と同調している。」
「自身を包み込む環境として、生成変化し続ける、携帯し、身に纏う音楽という新たなコンセプ トにまで発展・展開された。」
言うまでもなく、音楽の変質は、環境、風景の変質を通して、内面にも影響を及ぼす。
さらにもう一文、
「ケージは自身の音楽において「聴くこと」を前景化したし、さらに聴こえないということがない、ということを自身の内部からの音、すなわち「血液のながれる音」「神経系統の音」というどうしても聴こえてしまう音が存在するという前提によって回避した。しかし、たとえその世界を認識する個人が消滅した としても、世界はなんら変わることなく、それとは無関係に存在していることだろう。同様に、音楽を作る、演奏する、聴く、という行為を通じて人間は音楽を生み出し (録音など、複製された生演奏を伴わ ない音楽を音楽と認めるかといった、音楽をどのように定義するのかという問題はあるだろうが)、これまで必要としてきたが、音楽もまた音のように、聴く耳が存在するしないにかかわらず、もはや環境のように存在している。」
アンビエントミュージックとは、まさにこうして風景・環境をマスキングするものとして作用する。
しかし、そうした外部の風景・環境のマスキングは同時に、内部の私たちの情動のマスキングにもなっているのではないか。ここでの問題は、そんな内面など、あるいは人間など、不要なのではないかということだ。内面がなくとも、人類が絶滅しようとも、風景たる自然は持続し、音楽は鳴り続けるのではないか。私はその考えに断固として反対することはできない。しかし、そのように言ってしまうのはあまりにも悲しいではないか。
現代の私達は、風景に、音楽に、世界にとりこまれるわけにはいかない。確かに、明治以前の人間は風景と一体化した生活を送っていたのかも知れない。例えば夏目漱石はそうした内面の生成の時代に悩まされていたかも知れない。
確かに、私などなくとも、音楽と環境は、風景はあり続けるかも知れない。だが、今の私は、私の内面は、私の精神は、常に既に生成されて存在する。私は近代化されている。私はそうした内外を隔てる境界に、今、こうして苦しんでいる。近代の超克に、内外の越境に、こうして苦しんでいるのではないか。苦しんでいないものは、勝手に人間のいない音楽を夢想していればよい。
いや、しかし、ともすると、そうしたアンビエントミュージックこそ、この悩みを解体へと向かわせる小さいながらも大きな一歩になるのかもしれないと、幾つかの作品を聞いていると思われてくるのは、私はまだ十分に苦しんでいないからだろうか。