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本と環世界

私は本に囲まれている。読んだことのある本と、まだ読んだことのない本が、それなりに多く積まれている部屋に暮らしている。もちろんそれらの本のほとんどは私が購入したものである。しかしだからと言って、そこに積まれた本が常に私を駆り立てる訳ではない。買った当時こそ何か駆り立てられる気持ちでその本をレジに運んだ訳だが、今となってはその興奮の記憶は薄れて、今すぐにでも読みたいという訳ではなくなっている。

ドイツの生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、環世界という概念を提唱した。ご存知の方も多いと思うが、環世界は、生物がその感覚器官によって知覚し、直接働きかけることができる環境を意味する。その背景には、生物ごとに異なる感覚と認識の仕組みを持つのだから、同じ物理的な環境でも異なる世界を体験しているのだという考え方がある。例えば、ハチなどの昆虫は紫外線を見ることができるが、これにより人間にとって単色に見える紫も、ハチには紫外線パターンに見え、蜜のある場所を教えてくれる「標識」となる。この視覚的な違いによって、ハチにとっての世界の見え方と人のそれは異なることとなる。このことをもって、ハチの環世界は人間とは異なるということができる。

こうした概念を下敷きにして、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーは「動物は放心している」と言った。環世界とはつまり、その動物にとっての限界でもある。動物は自身の環世界の中で、「駆り立てられるもの」に対してしか振る舞うことができず、本当の意味で行為できない。例えばハチにとっては蜜は「駆り立てられる」ものであり、そちらの方へと動いて「しまう」。対して例えばハチにとっての本は何ら「駆り立てられる」ものではないから、その前を素通りするだろう。つまり動物にとっての環世界とは「自身に差し出されるものを持っているか否かに二分される世界」であり、差し出されないものに対しては全く駆り立てられない。そのような状態をハイデッガーは「放心している」と言ったのだ。

話は戻って、私は本に囲まれていると言ったが、これは私にとって少なくとも過去にはそれらの本が駆り立てるものとして機能し、それゆえにそれに囲まれるほどにそれらを蒐集したことを意味する。つまり、私の環世界においては、本というのは魅力的で自分を駆り立てるものであったのだ。しかし、本に駆り立てられるという現象は、動物における駆り立てられる状態とは違う。というのも、本は私が後から自分で駆り立てられるものとして認識し、興味を持ったものである。事実、同じ人間であっても本に興味を持ち、駆り立てられるように蒐集することのない人もいる。このように、人間は動物とは違い、後から興味を持つということができる。何も差し出してこない世界に対して、その潜在性に対して、あたらしい布置状況を生み出していける。このような人間の特殊性を、ハイデッガーは「世界に開かれている」と言った。

さて、とはいえもちろん人間も、動物と同様に駆り立てられるだけの放心の状態になることがある。自ら興味を持とうとせず、ただ今まで駆り立てられできたものに対し反復的に行動しているとき、それは放心の状態と言ってもいいのかもしれない。あるいはエコチェンバーやフィルターバブル、チェリーピッキングと言われる状況も、広く放心状態にある人間を示しているようにも思う。しかし、私が今現在積まれている本に対して駆り立てられない状態になっていることからも分かるように、人間があとからつくりだした「駆り立てられるもの」はいつしか衰退し、そうして「駆り立てられるもの」が無くなったとき、人間は退屈する。いやもっと言えば、人間が本能として駆り立てられるものにさえ、人は退屈する時がある。そこには動物のような「本質的な震撼」はない※1。ここでいう退屈は言うまでもなく、放心とは全く違ったあり方である。そこでは「駆り立てられるもの」が全くない。もはや放心して追い求めるものすらない。ただ退屈の前に、なにも「差し出される」ものを持たない物だけが並ぶ。

この退屈(倦怠)という状態は動物にあるのだろうか。ないとしたら、まさにこの退屈、この無化こそ人間が世界に開かれている※2根源的由来である。退屈がなければ、人は世界の開かれに気づかず、ただ放心の状態をさまよう。

開かれ、この由来は無化であり、無為である。つまりそこでは駆り立てるものもなければ、それを目的とした行為もない。ただ潜在性だけがある。目の前にあるこの物体は後に自分を駆り立てるものかもしれないと言う潜在性。あたかも古本屋で自分の興味のない棚に覚えるいいしれぬ検索の欲望かのように、ただその潜在性に対する欲望だけがある。いや、むしろそこでは駆り立てられることが空回りしているのかもしれない。駆り立てられるものがないがゆえに、無理に駆り立てられる対象を作らなければならないと空回りしている。本能的にも、後天的にも駆り立てられるものがなくなってしまうことに対する恐れだけが、ただ最後に残された潜在性への駆り立てを駆動する。

身体性は「あること」しか感知できない。身体の感覚として「ない」と言うことは感知できない。身体性の世界、そうしたある、ある、の連続の世界は動物的であり、発達的(自閉症的反復)であるかもしれない。それはまさに駆り立てられるものと駆り立てられないものの連続であり、そこに退屈はなく、無為はない。

しかし言語は「ない」という感覚を人に教えた。どれほど重ねても物自体に到達できない隠喩。目の前にあるりんごの赤さを完全に他者に伝達できないと悟った時、人は「ない」ということを知った。言語的に無を感知した人格的人間は、退屈を知り、無為を知った。人はそれゆえに世界に開かれているとも言えるが、それが素晴らしいとは言えない。

しかも苦しいことに、人間は「ない」ことを完全には受け入れられない。「ない」ことを知り、しかし「ない」ことに耐えられない人間は、今も潜在性に対してなんとか駆り立てられようともがいている。

※1
「本質的震撼」として、ユクスキュルが述べたダニの例を挙げることができる。ダニは何年ものあいだ灌木から、獲物となる哺乳類が通り過ぎるのを待ち伏せる。いざ獲物が通りがかるや、ダニは獲物から発散される酪酸の匂いに反応してその標的へと落下し、吸血する。そのあとにダニに残されているのは、地面で産卵することのみである。ダニは言うなればこの一回的な経験に生のほとんどを捧げるのである。このような、生涯をかけるほどの、いや、かけるという感覚すらなく出会う、その出来事の経験を、ハイデガーは「本質的な震撼」といった。これが人間に無いのかどうかは不明である。ともすると、ある精神状態、あるいは感覚過敏状態にある人にとっては、この「震撼」に近いものを経験することもあるかもしれない。

※2
開示可能性のこと。ハイデガーは動物についても「開放性」という言葉を使うことがあるので注意。


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