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「正欲」あなたはあなたで。私は私で。ただいるだけで。

韓ドラと全然関係ないのだけれども、ネトフリで「正欲」をおすすめされたので、仕事を終えた昼下がり、久しぶりの映画鑑賞に浸る。

朝井リョウ著「正欲」の映画化。
先に本で読んでいて、でも、これ、その特殊性癖を抱える人たちの話が生々しく、私には理解できない部分もあり、結局半分くらいで読めなくなって投げ出してしまった。

幾つか朝井リョウ作品は読んできたけれど、これは気分が乗らない。

一刻も早く手放したくて、メルカリで売る。
そして、もう、すぐに売れちゃったんで、今手元にはないのですよ。

売れてほっとした。

そのくらい粘っこく私を攻めてきた。

でも、やっぱり読めなくなったその先が気になっていたのは確かで、手っ取り早く映画を観てその欠けた部分を埋めたいと思った。

前半のストーリーは本で読んだままを思い出しつつ、追っていく。

何人かの登場人物の話が、それぞれに描かれて、文字で、頭の中で想像していた人物像が実在の人物と当てはまり、ちょっと違う部分もあったりで、答え合わせができるのは、映像ならではの感覚でおもしろい。

私の中での夏月はガッキーではなかったし、ササキは磯村勇斗ではなかったけれど、見ているうちにはまってくるのが不思議で、人が抱くイメージなんていいかげんなものだ。

最近は、LGBTQとか、マイノリティだとか、多様性だとか、よく耳にするようになった。
少数派を表す言葉だったり、それを尊重しようということは何となく分かるけれど、こういう言葉を使うことで、かえって特別なものにしていることにはならないのか?
ずっと私の中では気になっている。

誰かの普通は誰かにとっては普通じゃなくて、交わらない人を理解することなんて簡単にできるもんじゃない。
その世界を他人が踏みにじったり、押し付けたり、そんな資格は誰にもない。

お互いにパーソナルな部分は触れないでそっとしておくのがいいのではないか。

あなたはあなたで。
私は私で。

特別な言葉で分ける必要もなくて、そのままで。

分かってくれる人がたった一人いてくれるだけで、それだけでいい。

ガッキーの癖のない演技を観ながら、そんなことを考えた。
私にだって韓ドラが好きだったり、推しの存在がありがたかったり、一種の偏愛者と言えるのかな。
きっとそういうことに関心のない人にとっては理解し難いことだろうし、全人類の中では少数派なのかもしれないな。
それ自体が社会的に深刻な問題かどうか、社会での受け入れられ方の違いで生きやすさが変わってくるのだろうか。

映画の前半は、本と同じくぬめっとした感じでなじめなかったけれども、最後まで観て、物語の結末に反して爽快に気分になった。

そこはガッキーの演技の成すところかもしれない。

今日もネタバレなし。


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