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「ヘルドッグス」の感想のつもりが、自分の映画に対する偏見と妄言の流し場になってしまった件

 映画の中には名作と呼ばれるものが存在する。そういう作品と、そうでない作品の間にどんな違いがあるのか。
 一つ挙げるなら、「破綻を恐れていない」というものがあると思う。勿論、映画を評価する一つの基準として、完成度という指標があるのは事実だし、「シド・フィールドの脚本術」で紹介されるような作品(「チャイナタウン」「コラテラル」等・・・)、物語としての構造や組み立てが見事な作品は紛れもなく名作だと言える。

 しかし、そういった見事な完成度の作品であっても、細かく見ていくと、物語の枠組みの中から外れたものがあったりする。「コラテラル」で言えば、コヨーテの場面などがそれに当たるであろう。そういった「破綻」が映画の弱点にはならず、映画全体に活力を与えるエネルギーとなっているからこそ、名作は名作たりえているのだと思う。

  なぜ、そのような現象が起きるのか。私の意見では、その理由は「人間を描く」「世界を描く」ということに愚直に、真摯に向き合えば、「制約の中に収めきれない何か」が自然に入ってくるからだと思う。

 映画というのは強い人工的な制約の下で作られる。スケジュール、脚本、演技・・・具体的に挙げていけば、おそらく一般人の私の想定を超えてとてつもない量のものがあるのだろう。しかし、そうやって制約の中で人間を動かそうとする場合、困ったことがひとつ起きる。大抵の人間は制約の中に収まろうとすればするほど、予定調和的になっていき、縮こまっていく。そうはならないケースがあるとしたら、制約がその人間の本人さえ自覚しなかった何かを引き出すような場合だろう。もしかしたら、能や茶道などの日本の伝統芸能があれほど厳密に形式に拘るのは、人間の奥にある本人さえ知りえない何かを引き出すためなのかもしれない。

 話が逸れたので戻すと、人間や世界を描こうとすればするほど、「破綻」していくのは、表現の対象が「設計物」から「世界全体」になっていくからだと思う。映画のいわゆる名作といわれるチャップリンや黒澤明、ハワード・ホークスといった現代ではクラシカルな古典に分類される作品を観てみると、恐ろしく緻密に設計されているのと同時に、その設計からはみ出るような何かをカットせずそのまま提示しているような作品が多い。徹底して厳密なイメージがあるヒッチコックや小津作品にさえ、そういう要素はある。
そういった監督達の発言を私はそこまで読み込めているわけではないが、彼らの作品を観ると、「設計に押し込められないものを描く」ことに対してオープンで、破綻を恐れていない、なんというか自由な印象を受けることがある(実際の作品作りは超過酷だったみたいだが・・・)。

 今回観た「ヘルドッグス」もまた、破綻を恐れていない作品だった。雨の場面など、作品としての完成度・見え方だけを意識していれば、やらない、というかできないであろうことにあえて挑戦し、それが映画全体の異様なテンションに繋がっているように感じた。
 
 正直言えば、脚本は凄く強引だし、個人的に首を傾げるような歪な演出もいくつかあった。それでも、観終わった後、気が付けばパンフレットを買っていた。最近では珍しいほど中身が充実していたので、映画が気に入った方にはおすすめです。

岡田准一のアクションは毎回映画と絶妙に調和していて、そこに武術的精神を感じます。


 

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太郎丸
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