井上忠「口説きと運命 パルメニデスを言語機構分析すれば」 パルメニデス研究ノート
「パルメニデスは完璧に完成された玻璃宮(球)殿である。
それに比べれば、プラトンは、造りかけては放置された硝子の塔の数多な残骸とも見え、
アリストテレスは広大な野外運動場のようにも感じられる。」井上忠
この文を「はしがき」にした井上忠ですが、表題の論文では・・
「神の語りをも無雑作に鵜呑みにはせず、論駁吟味せずにはおかなかったソクラテスの道にほとんど接している、と言っていいであろう。」井上忠・・
パルメニデスを言語機構分析した井上忠の結論です。
ヴィトゲンシュタイン流に言えば、「言語の限界を超えた」思索を『言語』で表現しようとする『philosophia(哲学)』をはじめとする「詩」「神話」の、真に作者の意図・思索を探究しようとする際には、井上忠の如き、かかる「言語機構分析」は必須なのでしょう。
この論文の当初から、井上忠は、アリストテレス『範疇論』を援用してます。
別の論文では、プラトンを援用して、
『ものの地平に眺め入ってかえってものが見えなくなるよりは、「言葉のうちへ逃げ込んで言葉において存在の根拠が露わとなるのを考察すべきだと思った」プラトンは、そこで言葉がものの「写像」としてものに依拠するのではないことを明言し、「これらの言葉において存在を考察する場合、ひとが、事実(ものの地平)において考察する場合に比べて、(根拠から)もっと(離れた)写像において考察している、なぞと言うことは到底承認できない」と「ソクラテス」に語らせている(『パイドン』99e4-100a4)。「写像」でない言葉とは、みずからのうちに根拠を宿し、これを露わにさせ得る言葉であり、それゆえにわれわれにとって根拠への途の灯しとなる言葉である。』p267
とも言ってます。
「詩」「神話」とパルメニデスの『philosophia(哲学)』『詩』(=「哲学詩」)との違いを鮮明にすることこそが、『philosophia(哲学)』を『philosophia(哲学)』たらしめるものが何なのかを探究する手段なのでしょう。せっかく、ヴィトゲンシュタインを経たのですから、井上忠の、このパルメニデスの言語機構分析は、正に現代の、つまり、ヴィトゲンシュタイン以降のパルメニデス研究の必須の途なのでしょう。
『詩』として、否、『詩』としてしか表現し得なかったパルメニデスを真に理解するには、「非伝達言語を成立させる先言措定、超解放系言語機構を俟つしかない」との井上忠の結論となり、冒頭に書いたソクラテスの道につながっていきます。この命題もそうですが、井上忠の文章は特有の難しさと個性がありますが、その趣旨は、最先端『philosophia(哲学)』と言っていいものでしょう。
要するに、プラトンに『パイドン』を書かせた『何か』は、ヴィトゲンシュタインや井上忠が辿り着いた地平につながるのではないでしょうか。
この『何か』こそが、真の『philosophia(哲学)』なのかと思います。
つまり、神話の地平、詩の地平、真の『philosophia(哲学)』の地平、否、最先端サイエンステクノロジーの地平、純粋数学の地平すら、正に『言語』にあるのでしょうから。
11.Jan.25 パルメニデス研究ノート