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もう一度だけ「お母さん」貴女に逢えたら聞きたかったこと……『本心』平野啓一郎

初めに

今やAIの進歩も日々目覚ましく、ChatGPTなる人口知能まで登場し、気が付けば私たちの日常の生活空間にもちゃっかりと何食わぬ顔でそろっと忍び込んでいたりする。
ファミレスで配膳ロボットがもう当たり前のように仕事をこなす姿を見てつい微笑ましくなってしまうのは、それが愛嬌あるネコ型だからだろうか。アニメキャラクターのような親しみやすい表情で挨拶もする。別に猫の顔でなくても人間の顔でもいいと思うが、人間様はもう配膳などという単純労働は卒業しAIを陰で操る立場に昇格した手前、やはりマズイというわけなのか。

物語の設定は20年後くらいを想定した近未来

AIはもちろんVR(ヴァーチャルリアリティ=仮想現実)の技術も普通に人々の生活に浸透する中、29歳の<僕>こと朔也は亡き母そっくりのヴァーチャル・フィギュア(VF)を依頼する。渋谷の高層ビルでオフィスを構える制作会社だ。
今の科学の進歩からすれば決して奇想天外な夢物語ではないのかもしれない。
しかしどんなに本人そっくりであろうとそれは仮想空間の中でしか生きられないあくまでも母の代用品。ちょうど夢の中で相手の身体に触れたとしてもそれはどこか影をつかむようなものでしかない。会話はAI機能を通じまるで本人そのものと話しているように自然であっても、肝心なのはそこに″心″が存在しないことである。
朔也はVFがそういうものと承知しながら、また身を削って働き続けてきた母が一人残される彼の将来のために残してくれた生命保険300万円を制作費につぎ込んでまでも、それでも彼はどうしても<母>に逢いたかった……。

蝋人形という存在について

ところで本人そっくりでリアルな存在といえば蝋人形がある。
PARISのミュゼ・グレヴァンを始め世界各地にある有名な蝋人形館は、世界に名立たる有名人たちのそっくりさんが見られる一大アミューズメントスポット。しかし蝋人形は、歴史を遡れば医学の「蝋解剖模型」として誕生し、また人間の抑圧された暗い願望を満たすためのシリアスなものでもあったのだ。ヨーロッパで17世紀まで行われ19世紀まで迷信として残ったものに、個人がキライな人物に致命的なケガをさせたいという願望を蝋で表現する習慣があったらしい。なにやら物騒な話である。
なぜここで蝋人形の話題を取り上げたのかと言われれば、早くも結論めいているように思われそうだが、つまり「自分が見たいものだけをみようとするという意味ではリアルもバーチャルも変わらないのではないか」ということなのだ。

各国の首脳の方々


「お母さん、もう十分生きたから、そろそろって思ってるの」

そんな言葉を突然最愛の母から聞かされて戸惑わないほうが寧ろおかしいに決まっている。
いくら「自由死」というものが合法化されている時代であろうと、認可のハードルはそうたやすくはない。病による耐え難い苦痛の解決策が見つからない場合ならまだしも、「もう十分に生きたから」などの自己決定権に基づく理由も含まれるとはいえ、親しい者にとって納得がいくはずがない。
結局、母は朔也の承諾を得ることなく不慮の事故で亡くなってしまうのだが、母が自由死を決断するに至った裏にはもっと他の理由があるはずだとしか彼には考えられなかった。だからもう一度<母>にあってその理由を「本心」を確かめたかったのである。それなくしては一歩も先へは進めない気がしていた。彼はたぶん自分の居場所というものを探していたようにも思えるのだ。
それには29歳という人生の節目の年齢も関係しているだろうし、またリアルアバターという彼自身の仕事とも大いに関係がありそうである。つまり、あくまでも彼自身の身体というものは常に依頼者の身代わりでしかないわけで、そういう意味で彼もまたVR(仮想現実)の中でしか存在意義を見いだせない人間の1人だということだ。

母の本心を確かめたいという裏にある彼の「本心」にも注目すべきだろう。母を失いこれから先の厳しい現実の世界に一人で向き合うためには、母と一対一の人間として腹を割って話し合うことが彼には必要だったのかもしれないと。

待望のVFの<母>との対面

しかし思ったほどに蜜月は続かなかった。なかなか思うように自分が知りたい答えを母から引き出せないもどかしさを感じる部分は印象的なので少し引用してみる。


数日後に、僕が話を切り出したのは、週末の午後、
<母>と二人きりでいる時間を、少し持て余していたからだ
(中略)

「お母さん、……」僕はいつものように呼びかけた。母との間で、この話を蒸し返す時に、いつも感じていた不安で、胸が苦しくなった。
「ん、――何?」
<母>は、穏やかな表情で顔を上げ、僕を見た。
「″自由死″について、どう思う?」
「″自由死″?」
<母>は、確認するように言った。
「そう、″自由死″。」
「さあ、……お母さん、その言葉はちょっとよくわからないのよ。朔也、説明してくれる?」
それは返答できない時の<母>の反応の一つだった。しかし、説明しようとする僕は、込み上げてきた涙に、口を塞がれてしまった。

68頁


その後、母の本心を聞き出すためには、それなりの働きかけが必要であると実感した朔也は、母を取り巻く様々な人達に積極的に働きかける。だんだんと自分の知らなかった母の人間像が立体的になっていく。VRの世界にもそれらが反映されVFの<母>は益々本物の母に近づいていくように思えた。それにも関わらず、一時は毎日のように逢っていた<母>との会話の機会(ヘッドセットに手を伸ばす)は随分と減っていったのはどうしてなのだろう。


今は違う。僕が日常の中で経験する様々なことを、
誰かに聞いてもらいたいと思った時、真っ先に想い浮かべる顔は、
いつの間にか三好やイフィーになっていた。

自分の居場所というものを現実世界の中に見い出しつつあったのだと思う。

僕は、あの機械を″卒業″しつつあるんだろうか?<母>の人格の構成比率の中では、僕向けのものが主人格になっている。しかし、僕にとっては、今はもう、三好やイフィーとの人格の方が、大きくなってしまっているのではあるまいか?
そのことを考えているうちに、言い知れぬ寂しさがこみ上げてきた。

277頁


母の本心を探るという目的と付随して、自分の思いもよらぬ出生の秘密というものまでも知らされることになった朔也。しかしそれは母が自分に隠し続けた秘密であっても、それが自由死を希望した原因とか理由ではないということだけは理解できたのではないか。

これは母の「本心」を捜しながら、
一人の青年が様々な人々と現実に触れ合いながら成長していくための、
ある意味で通過儀礼の物語といえるだろう。

AIやVRの最先端技術がどんなに進もうと、人の心の内をそっくりと「本心」を知ろうとするなんて根本的に無理ではないのかと考えてしまう。
ここで最初の方で私が言った言葉を思い出してほしい。「自分が見たいものだけをみようとするという意味ではリアルもバーチャルも変わらないのではないか」

″人は相手の中に、自分が見たいと思う景色だけを
眺めようとする生きものなのかもしれない″

最後のほうで感動的な一場面に出合いながらも、自分はますますその思いを強くしていったのだった。


#読書感想文 #本心   #日本文学   #平野啓一郎   #書評



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MAGUDARA
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