文章 (2年目)
えっ、これって、秋?
ども、コーシです。
涼しくなってきてしまった。
今夏の非人道的的な暑さを乗り切って、心から安堵をしている。
季節の変わり目には毎度弱いが、いよいよ本当に慣れたもんだな、という感じだ。
もうパンツ一丁で寝るあの開放感を得れないのかよ、寂しいなぁ、と夏の去り際にぼそっと嫌味を残しておく。
ギリギリまでパンイチの開放感を楽しみ、夏を締めることとしたい。
”伝える”という行為、”ただ何処かに向かって話す”という行為、これらを両立することが難しい、というのが最近の感じていることだ。
世の中の全員が様々な活動をしていて、全員が頑張っていて、辛い思いもして、現状がある。
そんな人生の話を聞こうと本とかSNSとかを眺める時間が好きだ。
しかし、その人が急に「自分以外との比較や差異化」を表現していると途端に冷めてしまう。
たったそれだけのことで心の熱い部分が急速に冷え切ってしまう自分の心も、悩みどころではある。
とにかく、やっているならそれをやっていてほしい。
わざわざ人を蹴落とさなくても十分君たちはすごいと思いますよ、と言いたくなる。
そしてそれ以降は、見ることをやめてしまう。
別に承認欲求でもなんでもいいじゃないか、と思うのだ。
自分のやっていることに合理性を持たせて、「これは承認欲求や自己満足では無い」という主張を目にすることが辛い。
なんて生きづらいのだ!と叫びたくなってしまう。
見て!今こんな感じなんすよ!割と大変ですけど、楽しいんすよね!そっちはどうだぁぁ〜い!
でいいではないか。
誰があなたの人生を邪魔するんだよ。
所詮、比較や差異化なんてものは見た人が勝手にするもので、勝手にしている人のことを気にする必要なんてないのだろう。
誰かが納得しなくても、自分が納得しなくても別に大丈夫なのだろう。
ただ、やっぱりそれは難しいことなのだろう。
自分だって、noteで文章を書いているからこそ、文章を勉強したり、言語を勉強したりしてプラスアルファの何かを見出してしまっている。
自分をわざわざ納得させようとしているようにも見える。
ただただ、楽しいだけやっている感覚でも、どこか意味を持たせようとしてしまっている自分が、正直存在する。
これが、”伝えること”と”ただ話すこと”の両立の難しさだと、私は思う。
また文章だと特に難しい。
だってわざわざタイピングしているんだもん。
伝わりすぎてしまうのだ。
軽い気持ちで書いたことも、後から見るとかなり重めに読めてしまう。
私がこの2年間ちょい書いてきた文章なんて、ひょっとこのお面を被りながら書いたようなものがほとんどなのだが、たまに重く捉えられていることに驚く。
だから今回は「パンイチ」という言葉を用いた直後に、その語彙の雰囲気の軽さに乗じて急に本題に入ってみた。
結果としてはああまりに鋭角すぎて逆に目立つ。
「”伝える”という行為、〜〜〜」あたりでちょっと姿勢を整えてしまった。
”パンイチ”の持つ力を見誤ってしまった。
”パンイチ”に”ただ話す”の達成を背負わせることは不可能だった。
最後の悪あがきとして、太字にしておく。
自分の場合、こんな風に悩むことも趣味のうちとすることができるが、これを生業とした時、どのように向き合っていくのか、とても大変そうだ。
やっぱりもっと読んで、書いてをしなければ。
”面白おかしい文章”を探してみたい。
そうでないと、楽しさが減ってしまう。
そんなことを考え始めた、note2年目の夏の終わり。
もっと文章を書きたい。
フクダコーシ