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イメージとの葛藤。

「◯◯ちゃんぽいね」と言われるたびに、頭を抱えていた時期がある。そう言われることに何とも思わなくなった訳ではないけれど、そうならなければいけないわたし像を勝手に造られているようで、苦手なのだ。そしてその言葉に振り回されてしまうほど、自分の在り方を肯定できない自分自身に疲れていた。

知り合って間もない人からも、「◯◯ちゃんぽいね」と言われることはけっこうある。だいたい同じことに対して言われるので、「よく言われます」と笑って返している。わたしを見た他人の印象はそうなんだなと認めざるを得なくなってきた。その印象が否定的に感じるというよりも、「◯◯ちゃんはこうだね」と決めつけられているような気持ちになる。


一時期は特に、他人から言われた「~ぽい」の、~の部分にならなければいけないと思い込んでいた。自分がどういうイメージを持たれたいかではなく、わたしが相手のイメージに合わせようとしていた。だからますます、わたしの「◯◯ちゃんぽいね」と言われる回数は増えていく。自分で増やしてるじゃないか!と今なら自分に突っ込める。

だからといって、見られたい自分のイメージがあったのかと聞かれると、そういう訳でもない。ただ学生の頃の「大人しい真面目な子」という周りが抱くイメージと、そうではないわたしとのズレがとても居心地悪かった。そのズレを楽しむ余裕が無かったのだと思う。「大人しい」とか「真面目」という言葉に対して、当時のわたしはどちらかというとマイナスのイメージをもっていたから。


周りが人に抱くイメージと、本来のその人が必ずしも合致している必要はない。むしろ「ギャップ萌」という言葉があるように、イメージと違うから好印象につながる。意外性はその人の魅力をより強くする。

だからといって他人のイメージと自分にズレが無くても、それは周りからも見えやすい自分の一部分が表にも強く現れているのであって、それだけでその人を語れるということでもない。

人間に何らかのイメージを抱くように、言葉にも人それぞれ抱くイメージは異なる。ある人がマイナスに捉える言葉が、別の人にはプラスの言葉となる。
他人からの「~ぽいね」は、言ったその人にとっては褒め言葉なのかもしれない。どういうつもりで放った言葉なのか真相はわからなくても、受け取った側がそれをどうするかは、受け取り側に託される。

自分のイメージは自分である程度操作することができる。それはなりたい自分像がある人にとっては特に、自分を表現するのに役立つ。
なりたい自分像がない人でも、投げかけられた「~ぽいね」を自分の武器にすることは可能だと思う。それは周りから見た自分の印象で、その印象をどうするかは自分で決めて良いことだ。


わたしがこれまで受け取った「◯◯ちゃんぽいね」はどうしようかと考える。なんとなくだけれど、この先も同じことを言われる気がする。だとしたら、その印象はそのままにしておこうかなと思う。それが他人から見えるわたしであるなら。でも、見える部分があるなら、当然見えない部分もある。他人からは見えない(見えにくい)わたしを、もうすこしわたし自身が大事にしてみようと思う。




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さき
最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。