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生き方を教えてくれた、M先生。

もう11月なんですね。
だんだん肌寒くなってきて、冬を予感させる空気の匂いに変わってきました。
11月……、私にとってはちょっと憂鬱な月でもあります。
なぜなら、半年に一度の脳検査があるからです。

毎年5月と11月、執刀してくれた脳外科の担当医に術後の経過を診てもらっています。
「いつまでやらないといけないんですか?」
今でもMRIの中に入れられると手術前夜の不安が蘇ってきて、心臓がバクバクして、出来れば二度と入りたくないと思っていたのですが、
そういうわけにもいかないみたいです。
「いつまでっていうか、これからずっとだね」
開頭から縫合まで、約11時間かかった手術。前例もあまりない分、念のために経過をずっとフォローしたいそうです。

実写版ブラックジャック


ちなみに母は彼のことを、ブラックジャックと呼んでいます。

東京の某総合病院の脳外科部長先生に紹介状を書いてもらい、大阪の脳神経外科病院で診てもらうことになりました。
「場所が場所だから、外科的な措置は避けた方が賢明です」
最初の段階でそう判断された先生に命を預けるのは、いざ手術しないといけない段階になったとき、こちらとしても心もとなかったからです。

大阪の病院でも再度MRIとCTを撮り、待合室で呼ばれるのを待つ時間の長さたるや。
もはや検査や手術が怖いだなんて言ってる場合じゃありませんでした。
もう打つ手がないと言われたらどうしよう。今度の医者は何かしらの措置を講じてくれるだろうか。
生きた心地がしませんでした。

診察室に入るとそこには、名医と呼ぶには地味すぎる風貌の白衣のおじさんが座っていました。黒いポシェットを胸の前に下げ、小柄で少し痩せ気味で、骨ばった顔に大きな銀縁眼鏡がよく似合う先生。細くて優しそうなたれ目に『ほんとに天才外科医なの?』と思いました。
先生は私と母に一瞥を投げ、MRI画像を眺めながら
「初めまして、脳神経外科医のMです」
と軽く自己紹介したあと、
ヤなとこにヤなものができたね~
と言いました。標準語にどことなくオネエ口調で、張り詰めていた空気が一気に緩みました。
「直径4㎝くらいの卓球ボールサイズになってるよ。東京の先生が手術に踏み込めないのも分かるし、いつか他の組織に吸収されて消滅するかもって淡い期待を寄せるのも分かる。でも海綿状血管腫って成長し続けるものだからね」

――淡い期待

私をゾッとさせるには十分なパワーワードでした。

絶句する私を他所に、M先生は私の右側の頭頂部の少し下らへんに人差し指を当て。
「でも全く打つ手が無いわけではないよ。ここからなら道はある。難しい手術だし感覚は今よりも悪くなると思うけど、ずっと不安でいるよりはとっちゃった方がいいでしょ」
経歴も実力も知らなかったけれど、そう言いながら微笑んだM先生からは『異次元の天才』といった印象を受けました。

「あなたは悪くないでしょう?僕も悪くない。誰も悪くないんだよ。あとは僕が頑張るだけだから。君は何も頑張らなくていいから」

たぶん、ちょっとエコーかかってましたね。この名台詞は。
即入院の手続きをし、検査を重ねて一週間後に手術が決まりました。

病の本質


手術が無事に成功すれば、後遺症は残ったとしてもそれで一件落着。
そう思っていました。
でも、本当の闘いはむしろ退院してからがスタートであるということを、そのときはまだ知らなかったです。

退院して3年が経った今でも、オペ室の無影灯の眩しさがフラッシュバックして突然手足がこわばったり、
何度も同じ夢にうなされたり、
後頭部の傷跡が疼いたりして、
まだ在るということを常に認識させられています。
左半身は地面に強く引っ張られているように感じるし、感覚がない分、生傷や火傷も絶えません。
左目は半分見えていないし、左耳は水中から聞こえるようなボワボワ感。
いつになったら解放されるのか。
ときに不安は怒りや悔しさに変わって、半年検診の3回に一度くらいの頻度で号泣し、先生と看護師をあわあわさせてしまいます。
超多忙なブラックジャックもいい迷惑です。

でもいつも凄く親身になって聞いてくれて、
「絶対にもう大丈夫とは僕も言えない。生きてる限りどんな可能性もゼロじゃないから。でも今日まで3年大丈夫だったから、きっと次の3年も大丈夫。そういうふうに積み重ねていくしかないんじゃないかな。その前に交通事故とかで死んじゃうかも知れないけど」

え……そ、そうだよね。(笑)

「摘出して終わりじゃないよね。その後どう生きていくか問題。くよくよしてたら勿体ないよ」

私の気持ちを全部汲み取った上で、いつも優しく包み込むように励ましてくれます。
この会話からも少しだけ伝わったでしょうか。
私の中で『天才と変人は表裏一体説』が立証されました。


聞くと、先生は
「人間はみんな毎晩のように悪夢をみるものだ」
と思っていたそうです。
mm単位のズレで患者の命を落とすか、大きな後遺症を残すことになる脳外科の世界。
プレッシャーの重みは計り知れません。

「僕は悪夢を見ない日はないよ」
と笑って言った先生には、後光が差していました。ほんとに見えた。
人としての圧倒的な大きさを見せつけられたようでした。

勝とうとしなくていい


最近になってよやく闘う必要はないこということに気が付きました。
いや、私が自発的にそう悟ったわけではありません。
気付いたっていうか、いろんな偉人が言ってるし書いてるし、きっと正しいのでしょう。
私もそういうふうに捉えられたらいいなぁと思っていたけれど、本当にそう思うようになりました。そんな気がするもん。
誰も悪くない。病も悪くない。
善悪は主観の概念でしかなくて、だったら、都合よく解釈した方が楽じゃないですか?
無いものは無くて、在るものはもう在るんだから、上手く付き合って共に生きていくしかないじゃないですか。
身体的な障がいも、精神的な不安も、既にあるものとして受容するしかない。
それも全部込み込みパックでわたしだから。

と、強い口調で絶えず自分に言い聞かせてないと、また爆発してしまいそうではあります。まだまだこれからです。伸びしろ伸びしろ。

いつもありがとう


誰にでも苦労はあります。
それぞれがそれぞれの戦いの中で生きています。
その大きさを誰かと比べることはナンセンス。
でも、他の人の生き方を見て学ぶことはできそうな気がします。自分なりに工夫して。

私はいつも学ばせてもらっています。
他のクリエイターさんの文章から、先生から、友人から、家族から、先輩から、後輩から、師匠から……。
もらってばっかりは嫌だから、私も誰かを刺激できるような何かになりたいです。
だから昨日みたいに『何も書けない』日はあっても、『何も書かない』日には絶対にないよう、これからもジタバタして生きていこうと思います。


もう一人のM先生へ


村上先生。
手術前、何度も励ましのご連絡をくださりありがとうございました。
「まなかちゃんには強い神様ついてるからな!」
「また一緒にステージ作りましょう!」
先生のお言葉に、どれほど励まされたことか。
入院中、先生の突然の訃報を聞き、しばらく何も考えられなくなりました。
なんで私は自分のことばっかりで、先生のことをもっと労われなかったんだろう。
自分だけがしんどいわけじゃないのに。
どこまでも自己中な私でごめんなさい。
それと、ありがとうございました。先生に出会えたことで、たくさん夢が叶いました。
あと何個か叶えてからいきますね。5,60年後くらいでしょうか…。(長生きする気しかしない)

いつかまた必ず、一緒にステージやりましょうね!
それまでは、どうか安らかにお眠りください。





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