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脳腫瘍が発覚したときの話

医者から突然病気を宣告されたとき、
「まさか自分が……」
と思った人が多いようですが、私もそうでした。

いや、やっぱりちょっと違うな……。
壮大なドッキリを目の前で見させられているみたいな現実味の無さと、
「どうせそんな大したことないでしょ」
という楽観的で、どこか他人事として冷静に傍観している自分がいました。

消える温度


上京して2年目の6月。
大箱のレストランの受付で働いていました。その日もいつものように出勤して、いつものように働いて、常連のお客様と近況報告し合いながら、いつもと変わらない風景の中で過ごしていました。
ただ、やたらと左腕が冷たかった。
気候は暑く、いくら冷え性の私でもあんな冷たさは初めてでした。右腕で触れると、右の掌がとても温かく感じるほどでした。

それまで、どうも左身体の調子がおかしいと感じることは何度かありました。
読んでいる本の文字が、だんだん左下に落ちていくように感じたり、
何もない平坦な道で、左足をひっかけて転ぶことはよくありました。
『ここ最近あまり寝てないから疲れてるだけかな』
と、そのことについてあまり気にもしていませんでした。

しかし異常なまでに温度を失った自分の左腕が、このまま壊死してしまうんじゃないかと思うとだんだん怖くなりました。
お店の当時の支配人に相談すると、
「休憩中、病院行ってきな。戻る時間は気にしなくていいから。電話で報告してディナーまでに戻っておいで」
と言われ、お店から一番近い心療内科で診てもらうことに。

「ここではよく原因が分からないので、〇〇に行ってメディカルスキャニングを受けてください」
そう言われたとき、ラッキー!と思いました。
休憩時間が延長されるようなもので、今日の勤務時間は短縮される。心療内科の医師も
「疲れやストレスが原因の可能性もあるから」
と、まだその程度の認識でした。

MRIに映り込む黒い影


それが、人生で初めてのMRI撮影でした。

あれ、撮ったことありますか?
とにかくうるさい!
耳元にミニ工事現場。ヘッドフォンをしているとは言え、もう鼓膜が破れてしまうんじゃないかと思いました。
その状態で約20分間放置されて、撮影中は動いてもいけないし、
何故か頭の中では槇原敬之の『チキンライス』が、MRIのリズムに合わせて流れてくるし(声はダウンタウン浜ちゃん)、
カオスでした。

ようやく撮り終え撮影室から出ると、白衣を着た技師たちの様子がおかしいのです。
引き攣った顔でお互いに何やら話し合い、私の顔をちらっと見ると気まずそうに微笑んで、
足早に診察室に入って行きました。
(感じ悪……)
と不審に思っていると、すぐに診察室に呼ばれました。

あのとき。一番最初に私に脳の状態を診てくれた先生の顔が、今は全く思い出せないんです。
覚えていないのに、あの場面を思い出すときの先生の顔は何故かいつも宮崎駿監督で、『アニメ制作中』ってな様子が浮かぶから不思議です。人間の記憶力なんてものは、実に頼りなくデタラメなものです。
まぁ、動揺していて当たり前なんだけど……。

「私は脳外科医ではないので詳しいことは話せません。
今すぐに都立〇〇病院の救急外来に行って下さい。
病院へは既に連絡済みです。電車に乗らず、タクシーで向かってください。もう呼びました」

正直、脳腫瘍の存在を宣告されたときよりも、このときの先生の焦りようの方が私を不安にさせました。
冷たくてモワモワした黒い雲みたいなものが、体の中にゆっくりと広がっていくような感覚。
どうにかして吐き出さないとそれに飲み込まれてしまいそうで、タクシーの中、母に電話をしました。

そうやって言葉にすることで気持ちが少しは晴れた反面、心配が的中するかも知れないという二重の感情に挟まれていました。
タクシーの窓に流れる東京の景色が、なんだか初めて来た知らない街のように見えたのを覚えています。

注射で泣く26歳


そこからはもう、急速で流れるベルトコンベヤに乗せられた荷物のように、私には選択肢も、考えて迷う余地も、なんならまともに不安を抱くも与えられませんでした。
「右脳の視床下部に腫瘍があります。まだ早期発見で身体に異常は来たしてないですが、いつどうなるか分かりません。
今から緊急入院の手続きを行ってください」
そう言われてもまだ何が何だか分からない状態で、上手く情報を処理できなかったです。
この状況の下でなんの感情も湧かず、落ち着き払っている自分の冷静さが不気味なほどでした。

血液検査のとき、血管に上手く刺せないという理由で何度も皮膚の下を針でグリグリされました。
痛かった……。
でも大人やもん、泣けへん。大丈夫、大丈夫。
繰り返し自分に言い聞かせていると、
「痛かったよね、ごめんね、泣かないで」
と言った看護師の言葉で、自分が泣いていたことに気付きました。

同じく東京に住んでいた姉1号が、仕事を中断し飛んできてくれて、
一通りの入院手続きを済ませ、医師からの説明も家族に伝えてくれました。
その間、私はいい歳して
「おかぁ~さ~~ん」
と泣きたくなるのをぐっと堪えて、脳内でまた、
『チキンライス 浜田ver.』を再生させていました。

その後の長い入院生活の中でも幾度となく流れたこの曲は、
別にお気に入りでもなければ、よく聞いていたわけでもありません。
しかし不思議なことに、この曲しか浮かばなかったんです。

今日はクリスマス
街はにぎやかお祭り騒ぎ
七面鳥はやっぱり照れる
俺はまだまだチキンライスでいいや

『♪チキンライス』槇原敬之

浜ちゃんの、ちょっと悪戯っ子っぽい声とメロウな曲調。
少なくとも、私の緊張をほぐしてくれました。ありがとう、浜ちゃん。

自己防衛本能


今こうして思い返すと、ひどく冷静だったことも、宮崎駿が記憶に友情出演することも、浜ちゃんにハマったことも、
私のなかで、一種の自己防衛本能が働いたからなのではないかという気がします。
身の危険を感じるほどの恐怖心から気を逸らすため、少しでも日常に近い感覚を持ち続けるために働いた本能的な逃避。

これって、割と日常的に発動しているようにも思いませんか?。
気まずい空気の中で笑ったり、緊張感のある状況下であえて冗談を言ったり……。
動物に備わっている本能が、無意識に自分のことを護ろうとしているのではないでしょうか。
そう思うと、
「あのときはありがとうな。私のからだ」
と言いたくなります。

私のご飯を横取りする姉

自分を大切に扱うことの重要性


うん、やっぱり、まず感謝するのは浜ちゃんよりも、飛んできてくれた姉よりも、診断してくれた先生よりも、
私のことを護ろうとした”わたし”だな。

これまで、そう思うことは罪深く、また卑しいことのように捉えていたふしがあります。
生き残ったのは周りのおかげ。みんなが頑張ってくれたから。
そういう解釈の方が尊く、優れた人間になれるような気がして、
どこを探しても、感謝の対象にはが不在でした。

もちろん、献身的に支えてくれた家族や友人、病院の先生や職場の方々には心から感謝しています。このご恩は忘れません。絶対に。
「もっと早く病院に行かせてあげたらよかった」
と仰った支配人。あなたは私の命の恩人です。

でもまずは、どうにかここまで生きた自分に
「ありがとう」
って言いたいです。
それと「疲れた」って信号、ずっと無視し続けて「ごめんね」

これからは、大切にするけんな。

チキンライス歌詞いいよね


発覚から3ヶ月後、腫瘍はピンポン玉サイズにまで肥大化し、このままだと呼吸が出来なくなるかもしれないという状態になりますが、
その話はまた別の記事で……。




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