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組織を芯からアジャイルにする

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「組織を芯からアジャイルにする」ために。あなたの居る場所から「回転」を始めよう。
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スクラムマスターやプロダクトオーナーがいなくて、アジャイルができるのか?

 関与する組織によっては、スクラムマスターがいない、プロダクトオーナーがいない、ということがありえる。  経験的にいないにも等しい、兼務でほぼいない、物理的に本当にいない、いずれの「いない」がある。まともに考えればスクラムに取り組む状況にはない。というときに、支援者としてどういうスタンスを取るか、は2つに分かれるだろう。  「いない」では話にならん。経験がゼロならまずスクラムガイドを読むところからはじめよ。しかる後に、自分たちにどのような支援が必要になりそうか、自分たち自

「どうありたいか」と「どうするべきか」と「どうしたいか」の間にある三つどもえ

 「それは、アジャイルではない」「アジャイルがやりたいわけではない」このあたりの問答は時折あるだろう。こうした問答に突きあたったとき、たいていの場合、ムードはぐんにゃりとしていく。対話するどちからがやりこめられる、またはやりこめられないように抵抗しはじめる。心中には波風が立ち、気もそぞろになっていく。  何が起きているのだろうか?  「どうありたいか(目的)」と、「どうするべきか(方法)」と、「どうしたいか(意志)」は三つどもえになりやすい。この3者で陣取り合戦を行ってい

「小さく始める」の罠

 「小さく始めよう」という誘い文句が以前に比べると、ごく当たり前のように使われるようになってきた感がある。「小さく始める」はようやく市民権を得られるに至った。世代交代が進んでいるからだろうと思う。  ところで、小さく始めるのは何のため?  文脈によってその意図は異なるだろう。いくつかあげてみよう。 ・はやく学ぶ  あらかじめの計画づくりをいくら精緻にしようとしたところで、その効果が期待できない。複雑な問題や状況のため分かっていない、知らないことが多い。そのような場合には

週に1回ミーティングを開いたらアジャイルなのか?

 気づけばすっかり隔世の感だが、アジャイルが当たり前になってきている。と書くと、言い過ぎでは?と思われるかもしれないが、出発地点に居た者としては真面目にそう感じている。当時の時間をともにした同朋ならば、きっと同意してくれるだろう。かつてから比べれば、アジャイルは遠くにまやってきた。  そして、仕事柄も踏まえて「アジャイルに取り組んでいるんですが」という枕詞も毎日、いや毎時間のように聞いている。アジャイルに取り組んでいるが上手くいっていない、そもそも上手くいっているかどうかわ

スクラムマスターは「学び上手」を目指そう

 アジャイルとは学習活動のことだ、とするならば、スクラムマスターやアジャイルコーチは学びのための先導役ということになる。チームがより良く学んでいるか、学ぶための状況づくりができているか、に着目する「学習の番人」にあたる。  とすると、学びのためのアクティビティ、プラクティスに関する引き出しを持っておく必要がある。いかにしてチームの学びを促すか、道具を揃えておくことだ。もちろん、それはただ「知っている」という状態のことではない。知っていて、使い方を分かっていて、すぐに道具を取

「アジャイル」の何が難しいのか?

 「アジャイルをやろうとすると、組織のこれまでの規則や考え方と合わないところが出てくる。だから、アジャイルを取り入れるのは難しい」  という反応を得ることは少なくない。もう10年も20年も前からこの声はある。それでいて、なお、いまだにある。そう考えると余程のことであると思えてくる。アジャイルが革新的すぎるのか、それとも組織が病的なほど固まりすぎているのか。  アジャイルという営み自体がこれまでのあり方とはあまりにもかけ離れている、というのは確かにそうだ。例えば、「職能横断

仮説キャンバスは全体に対するセンター、芯

 このところ、またこの言葉を繰り返すようになっている。 「まず、仮説キャンバス作りましょうか」  仮説キャンバスを作るところから話は始まる。正確には、"話を始める"。キャンバスを書こう、話はそれからだ。  20枚、30枚のプレゼン資料を読み解くことに時間をかけるよりも、仮説キャンバスをさっそく相手と一緒に作ったほうが早い。何しろ相手は、テーマに対する20枚、30枚分の知識がすでにある。  こちらからは要約の仕方(これが仮説キャンバス)を提示できれば、ベストな協業が始め

プロダクトづくりでマネジメントするのは、「ステージ」か、「ステート」か

 「ステージ」という言葉を比較的よく耳にする。「XXXステージを定義し、ステージの終わりにゲートを設けて、内容を審査する。ステージゲートでクオリティを担保しよう」みたいな話。  いにしえのソフトウェア開発でよくあった状況であるし、近年は事業開発の文脈でも、ステージゲート法が用いられることが多い。先に述べておくと、何も見ていないより、ステージゲートがあったほうが余程良い。ただし、"ステージ" という言葉に込められている暗黙的な傾向には注意したほうがよい。ステージは、「計画指向

正しくやれているのに、残念な仕事

 何かにつけやるべきことを増やしてしまって、徐々に身動きが取れなくなってしまう。本来目指すべき目的の達成以上に、「これまでの仕事の考え方、判断軸とあっているかどうか」を優先してしまう。絶望的に時間が掛かり始めて、当初の想定よりも圧倒的に目処感がつかなくなっていく。要は、仕事を増やすことになるので、疲弊もする。やがてどこからと言わず、怨嗟の声があがりはじめる…。  このパターンは多くのことにあてはまる。例えば、新しいプロダクトや事業の開発、あるいはアジャイル開発をはじめて取り

「PdMO」と「アジャイルなプロダクトづくり」

 最近、熱をあげているプロダクトマネジメントオフィス(PdMO)についての勉強会を開いた。考え自体は、もう数年前からパブリッシュしているものだが、ここにきて「PdMOに向き合わない日はない」という状況になっている。価値創出と組織変革の2つの文脈が交わるという点で、かつ現代組織が抱える負債をいなしつつもプラクティカルに取り組めるという点で、私と周辺にとっては欠かせないものになってきている。  例によって、ここ数年の取り組みから一定の蓄積が得られてきたので、言語化しはじめている

「アジャイルなプロダクトづくり」 を現場、組織に。

 9月4日に「アジャイルなプロダクトづくり」を上梓した。この本を作るにあたってのインセプションデッキがこちら。どのような本をおおよそどう作ったかを書き著してみた。  さっそく、ご感想もいただき、大変感謝の限りです。  皆様、ありがとうございます。  デッキにも書いている通り、この本には「ストーリー」がある。まとまったストーリーを書くのは2020年の「チーム・ジャーニー」以来で、気がつけば4年ぶりであった。  「正しいものを正しくつくる」を「カイゼン・ジャーニー」のよう

進捗マネジメントではなく、プロダクトマネジメントを始める

 何をマネジメントしたら、成果に辿り着きうるのか?  これまでの仕事のやり方と、今期待されている仕事のやり方、この2つの間にある大きな違いについて、気付くための問いだ。さらに、この問いの背景には、成果そのものの意味が異なる、という事実が存在する。  成果とは何か?  この問いに向き合うたびに、ドラッカーの顔を思い浮かべてしまう。シンプルながら突き詰めて答えようとすると歯ごたえのある良い問いだ。  決められた期日に、予定されたコストで、必要とされるアウトプットを揃える。

プロダクトづくりの「芯」にある、2つの約束事とは何か

 私達はなぜプロダクトづくりをしているのだろう?  その理由は人によって様々だと思う。ユーザーに価値を届けるために。ビジネスの成果をあげるために。そもそもつくるということが好きだから。チームで一つのことを実現していくでワクワクしたいから。どれもその人にとっての原動力に足ることだろう。  私は、プロダクトとソフトウェアという言葉を使い分けるようにしているが、ここでいう「プロダクトづくり」はいずれも含めている。取り組みによっては、単一のプロダクトに焦点をあわせるよりは「事業」

アジャイルのつもりでいてアジャイルでない、「つもりアジャイル」

 なんか違うアジャイルチームのイメージを4つほどあげてみる。 アジャイルの手順化 2週間に2時間だけのチーム バックログ空焚き問題 アジャイル風味のWF  アジャイルのつもりでいて、アジャイルでない。つもりアジャイル。  「アジャイルの手順」とは、プロセスやプラクティスの「定義」に固執し、結果的に「手順」として見てしまっている。その結果、手順としてあっているかどうかの評価が優先的になる。この流れから、アジャイルをプロセスとして厳密に定義しようとしてしまう(アジャイ