週に1回ミーティングを開いたらアジャイルなのか?
気づけばすっかり隔世の感だが、アジャイルが当たり前になってきている。と書くと、言い過ぎでは?と思われるかもしれないが、出発地点に居た者としては真面目にそう感じている。当時の時間をともにした同朋ならば、きっと同意してくれるだろう。かつてから比べれば、アジャイルは遠くにまやってきた。
そして、仕事柄も踏まえて「アジャイルに取り組んでいるんですが」という枕詞も毎日、いや毎時間のように聞いている。アジャイルに取り組んでいるが上手くいっていない、そもそも上手くいっているかどうかわからない、逆に上手くいっていると思うがあまり進歩を感じない、という話もきく。
そんな時に、「スクラムイベントを全部実施しているか」「スプリントゴールを設定しているか」「スクラムチームはロールが揃っているか」「プロダクトバックログは云々」と、「やっていること」だけをチェックしたところで、上手くいっているかそうではないかの核たるところは分からない。
上手くいっているかどうかの警鐘をならす「感覚」は、どれほどスクラムをやっていたとしても収まっていかないだろう。ところで脱線するがその「感覚」は大事にしたほうがよい。「感覚」は最初で最後の頼りだ。違和感があるということは、経験的に何かしらのエラーを感じ取っているということだ。自分自身が手がかりを示してくれている。
スクラムを形式的に捉えると「週1回、定期的なミーティングを開いている」という行為で表現され、「にも関わらず上手くいかない」あるいは「だからスクラムはやっている」と続くことがある(これまで沢山の質問を受けてきたがいよいよここまで来たかという感がある)。週1回、チームで顔をあわせて、議論している。次に向けてやるべきことを確認している。進捗をチェックしている。それでスクラムなのか?
どうなっていれば、意図を果たしていると言えるのか。もっとも最初に挙げるのは「検査適応」だ。週1回、定期的なミーティングを行った結果、自分たちの取り組み自体からどんな学びを得たのか。次に向かう判断や行動がより適切になる機会を作れているのか。単なる状況共有、進捗確認では、検査適応を果たしているとは言えない。次のスプリントで私達には何か新しいトライ、小さくとも「変化」があるのか。
この営みを続けていくためには欠かせない観点がある。「小さなビジョン、大きなビジョン」があるか。スクラムでいえば、スプリントゴール、プロダクトゴールにあたる。これから始めるスプリントという小さな旅で、何かしらの目的、目標、あるいは仮説を置いているか。あるいは、より長い距離としての目指したい方向があるか。2つのビジョンが検査適応を繰り返していく際の一つの拠り所になる。そして、これらのビジョンさえも検査適応の対象となる(「むきなおり」と呼ぶことにしている)。
ビジョンを持って検査適応を繰り返す、この営みを「誰かの指示」としてただやっていくとしたら、おそらくそのアジリティは極めて低いものになるだろう。「自分たちで考え、自分たちで動く」、この状態が作れているか。何を判断するにも、チームの外側に向け確認し、承認許可を得て実行していくのでは、遅すぎる。単に進捗が遅いのではなく、学びが遅い。3つ目の観点は「自己組織化」だ。
まだある。自己組織化しているチームならば、当然のように備えている観点だが、4つ目として「改善」。検査適応の営み、チームで動くということ自体について、より良くする工夫が施されているか。より良くあろうとする思いを確かに持てているか。誰かからのもっと改善せよ、という声ではなく、チームの行動指針として改善指向が存在しているか。より良くなろうという営みが完了することはない。
最後に、チームが自分たちの営みに、「甲斐や楽しさを感じられている」か。ビジョンに向けた果てしなき検査適応を自律的に、かつ自己改善を交えながら続けていく。この営みの燃料は何か。それは自分たち自身で感じ取る達成感や充足感になる。どれだけ型通りにやれていたとして、それがやっつけ仕事であるならば持続はしない。あるいは、持続していたとしてもその結果に満足する人はチームの中にも、外にも、存在しないだろう。
さて。週に1回ミーティングをしていたらアジャイルなのか。見るべきは、そこで何が起きているかだ。