がん免疫治療の新展開 〜免疫の神秘と未来への展望〜

このブログは、2022年2月13日に開催された「第8回 京都大学 − 稲盛財団合同京都賞シンポジウム」における、本庶 佑(ホンジョ タスク)先生の講演「がん免疫治療の新展開」の内容をベースにまとめたものです。講演では免疫の仕組みや、がんに対する新しい治療法の登場にまつわる歴史と功績、そして日本の研究・教育の在り方や生命科学が生み出す可能性が語られました。ここでは、その内容を可能なかぎり丁寧に振り返りつつ、がん免疫治療の広がり、研究体制の変遷、さらに日本社会の課題や教育現場の問題提起にまで踏み込み、全体像をわかりやすくお伝えしたいと思います。

まず本庶先生は、研究者としてのキャリアを振り返り、どのような動機や幸運、そして先人からの教えを経て、がん免疫という研究領域にたどり着いたのかを示されました。特に、免疫には自然免疫と獲得免疫の二種類が存在し、脊椎動物のみが高度な獲得免疫を持つ点に注目しておられます。獲得免疫があることで、私たち人間を含む脊椎動物は膨大な病原体に対抗でき、その恩恵を受けて平均寿命を大きく伸ばしてきました。一方で、長寿化にともないがんの発症リスクが高まるという現実もあるのです。しかし、そのがんにも免疫が対抗できる、という事実が明らかになったことこそが近年の大きなブレイクスルーになっています。

本庶先生の研究は、かつて「援軍不在」とまでいわれたがん免疫の領域に光を当てるきっかけになったともいえます。PD-1という分子を偶然に見つけたことが始まりとなり、そこから長年の研究と試行錯誤を経て、PD-1が免疫におけるブレーキ分子として機能すること、これを抑制する抗体を投与することでがん細胞を攻撃できる可能性があることを明らかにしていきました。このPD-1分子がないネズミは自己免疫病を起こしてしまう、つまり免疫システムが過剰に活性化して自分自身を傷つけてしまうという現象が示されたのです。すなわち、PD-1は免疫反応をコントロールするためのブレーキであり、適度にブレーキを外すことができれば、活性化した免疫細胞ががん細胞を効率的に攻撃するという仕組みが利用できる。その考えを基礎として開発された治療法こそが、今、世界各国で実用化されている免疫チェックポイント阻害剤によるがん免疫療法です。

この療法の特徴として、第一に従来の化学療法とは異なり、正常細胞そのものを直接痛めつけるわけではないため、重度の副作用が起こりにくいことが挙げられます。もちろん免疫が過剰に働きすぎると自己免疫症状が現れますが、細胞毒性の抗がん剤で発生するような脱毛や重篤な吐き気・体力低下とは性質が異なるので、患者さんのQOL(クオリティ オブ ライフ)を維持しやすいと期待されています。また、数あるがんの種類に対して共通的に働く可能性があるため、かつて「特定のがんには効くが、別のがんには効かない」とされていた治療法とは一線を画します。実際にPD-1抗体は、世界で数多くのがん種に対して適用拡大され、より幅広い患者に恩恵をもたらすことに成功しつつあります。

さらに興味深いのは、治療をしばらく続けて腫瘍が縮小してきた段階で投与を止めても、がんの再発が起きにくいケースが多く報告されている点です。一般的な抗がん剤の場合、投与をやめれば再燃したり、別の薬剤耐性を持ったクローンが増殖したりといった問題がしばしば起こります。それに対して免疫チェックポイント阻害剤の場合、縮小後に投与を停止しても長期にわたって腫瘍が増殖しない、あるいは再燃しても免疫の記憶が働いて再度抑え込むケースが見られることがあり、「がんが慢性疾患になりうる」「がんを生涯管理できる状態に持ち込める」と期待されているのです。すべての患者に当てはまるわけではないものの、少なくとも一定の割合の患者がこの持続効果を体感しているという事実が、画期的な希望を与えています。

講演では、PD-1阻害剤の発見から実用化までの長い道のりが語られました。発端は1992年に研究室で特定の遺伝子を探索していた時に「たまたま見つかった」分子がPD-1だったという偶然。しかし、その後の1990年代から2000年代にかけて、自己免疫病モデル動物を用いた実験や、分子生物学的な解析によってPD-1が担う役割の本質が少しずつ解き明かされていきました。どのタイミングでどのようなシグナルが入り、どうやってブレーキがかかるかを把握し、さらには「ブレーキを外せばがんに対して有効なのではないか」という仮説を持つに至った流れは、人類の知的探求の象徴ともいえる過程です。

そして一連の研究がいよいよ臨床試験に進む段階になって初めて、人類が長年追い求めてきた「免疫でがんを克服する」試みが現実味を帯びました。例えば海外のデータで、メラノーマ(皮膚がんの一種。非常に攻撃的で難治性が高いとされる)が進行した患者さんにPD-1抗体を投与した群と、従来の化学療法剤(ダカルバジン)を投与した群を比較した際、1年ほど経過した時点での生存率に格段の差が出たという報告は、がん免疫療法が本物であることを象徴的に示しています。そこから世界中が一気に熱狂し、PD-1阻害剤の開発レースが活性化し、次々と臨床応用されるがんの種類が増えていきました。日本でも2014年に「ニボルマブ」というPD-1阻害剤が承認されて以降、肺がん、腎臓がん、胃がんなど幅広い適応拡大が行われ、今や多くの患者さんが実際に恩恵を受けています。

しかし、依然としてPD-1阻害剤が効かない患者さんもおられます。その割合は3割程度に効きやすい一方で、効果の実感が得られない方が6〜7割に上るともいわれています。肺がんやメラノーマなど、複数の遺伝子変異を多数抱えるがんは免疫の標的になりやすいという性質がありますが、いわゆる「変異量が少ないがん」では効果が出にくい場合もあるのです。これまでの研究の中で、がん細胞に多数の遺伝子変異が蓄積されているほど、免疫系が「敵」として認識しやすくなり、免疫チェックポイント阻害剤を使った際に効果が出やすいという傾向も見えてきました。ただ、だからといって変異数の多少だけで結果が左右されるという単純な話でもありません。変異の種類や腫瘍細胞がいる環境、免疫細胞ががん組織にどれだけ浸潤できるか、患者さん自身の体力や併存症など、さまざまな要素が組み合わさって初めて「効く・効かない」が決まるため、一筋縄ではいかないのです。そこで、PD-1阻害剤を他の治療と併用する試みが世界規模で行われています。CTLA-4阻害剤(イピリムマブ)との併用や、化学療法・放射線療法との併用、新しいワクチンとの組み合わせなど、無数の治験が進められており、その成果次第で「免疫チェックポイント阻害剤の有効率が向上し、多くの患者に恩恵が及ぶのでは」と期待されています。

本庶先生の講演では、高齢ネズミの実験系でなかなかPD-1阻害剤の効果が出ない理由や、その打開策の発見にも言及されています。若いネズミに対してはPD-1阻害剤が目覚ましい効果を示すのに、高齢ネズミで同様の実験をするとまったく効果が見られない。これは人間社会でも見られる「加齢とともに免疫機能が低下する」という現象のモデルといえます。実際、高齢になると胸腺が萎縮し、免疫細胞が十分に作り出されないことが知られています。そこで強力な免疫刺激を加える手法を組み合わせることで、高齢のネズミにおいてもPD-1阻害剤の効果を発揮させることが可能になるという研究成果を紹介されていました。これは将来、高齢患者さんに対しても免疫療法を最大限に生かすためのヒントとなりうるでしょう。

さらに、がん免疫の知見はコロナ禍でも多くの示唆を与えてくれました。ワクチン接種によって体内のリンパ球が多様化し、獲得免疫の仕組みが活性化される現象は、ウイルス感染症への対策のみならず、がん免疫のメカニズムにも通じる部分があるのです。私たちはコロナウイルスによる感染拡大を通じて、感染症に対する医学・生命科学研究の重要性と、そこに投じる資金や教育の不足がどれほど社会に大きなリスクを与えうるかを、身をもって体験したといえます。同時に、科学が得られた知見をもとにワクチンや治療薬を迅速に開発・実用化することで、社会や経済を支える最前線になり得ることも再確認しました。科学は経済的利益だけでなく、人の命や社会を守るために不可欠な基盤として機能するからこそ、研究や人材育成への一層の投資が求められるのです。

本庶先生の言葉の中で特に印象的だったのは、日本が現在直面している多くの課題(エネルギー問題、情報・AIの制御と活用、医療の高度化と人口減少への対応など)を乗り越えるために、生命科学への投資こそが重要だという点です。自然界にはまだまだ解明されていないメカニズムが無数に眠っており、その複雑性は現代の物理学や化学が対象としてきた世界とは比較にならないほど高いというのです。物理学であれば重要な基礎理論やテーマがかなり明確化されてきた一方、生命科学は対象が膨大で複雑すぎるがゆえに、どこに最大のブレイクスルーが隠れているのか誰にもわからない。その意味で、多方面からの若い人材や他分野の研究者が参入し、手探りで挑戦し続けることの意義が大きいとされます。

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