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やるべきことができなかった時に思うこと。今日の写真は昨日の八宝菜を載せた中華そば。

やるべきことができず後悔することがあります。しなければならないこととも違って、やっておけば良かったと後から思うことです。

やっておけば良かったと思うのは結果からわかることで、しなければならない事は、結果を事前に想定できていることです。しなければならないのにしなかった場合には、結果がわかっていてやっぱりしておけば良かったと反省するのです。

事前に結果を想定できるのかできなかったのかでやるべき事としなければならない事に分かれるのです。人生の大半はやるべき事ができていなかった事の繰り返しです。

やるべき事もしなければならない事もわからずに生きているのは、行き当たりばったりの生活だと言えるのです。その時々で自分の好きに任せて行動するのです。

心は自分の好きだけです。

それが、やるべき事とかしなければならない事など制約を自分で作って行動するのですから窮屈で厄介ですよね。自分の自由を自分で不自由にしているように思ってしまうのです。

自分の好きなように行動するのが自由だと思うのは間違っています。

自分が幸せになる為に不自由を受け止めるのが良いのです。何が不自由にしているのかと言うと他人の幸せを奪ってはいけないという事です。

人は、殺生せずに生きる事ができません。矛盾する条件がついているのが人間だからです。「人間では無い」と自分に言い聞かせて殺生や悪事を行うのはまだ救いがあります。人は殺生や悪事をするものだと開き直るよりも、何も知らず「幸せになりたい」と自由を求める事の方が救いようがありません。なぜなら悩む事を放棄しているからです。

悩む事で人は人としてどうあるべきかを導き出しているのです。

悩んだ結果、病になる場合があります。病になった事でさらに悩むのです。
悩んで、悩んで、病になった事で不幸も幸せも関係ない生きる事も死ぬ事も関係ない。生かされているのだと気づくのです。

自分が居るのは他人のおかげだと気づくのです。自分がどうこう出来ることなど知れているのです。自分の知らないところで自分を生かせる力が働いていると知るのです。

生きているのは生かされているからで、自分が生きようと思う気持ちに応えてくれているのです。生きて何をするのでしょうか?

「幸せに生きる」です。

幸せは、見えます。聞こえます。触れます。匂って、聞こえるのです。
五感を使って感じるのです。五感を使って伝える事もできるのです。
幸せを知らなければいくら伝えても伝わる事はありません。
幸せを知ると執着心が芽生えてより幸せを求めてしまうのです。

そうです。幸せは欲望を叶える事です。

自分の欲望を叶えるために努力して辛い事も悲しい事もするのです。それが幸せでもあるのです。それを長続きさせたければ他人の幸せを奪わない事が胸に無ければなりません。

胸は心です。

自分の事しか考えない学びは本当の学びではありません。

#たぬきのポッさん #エッセイ #スキしてみて

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