強がりと弱虫についての考察。今日の写真はカツ丼にしようと思ったのですが、ご飯一杯で済ますためにやめたの図です。
お茶碗を小さなお茶碗にしました。食事制限ではなく腹八分目を目指すのです。満腹にならないと気が済まない体質を腹八分目で満足する体質に改善します。
でも、たまにお菓子を食べたり冷たいアイスクリームを食べたりした時は少食にするのです。この歳になると運動でカロリーを消費することは難しいのです。
もちろん、運動も怠らないようにしていますが、雨が続くと体重計に乗るのが怖くなります。さて本題の強がりと弱虫についての考察です。
強がりとは強く無いのに強いと見せることです。つまり強くないことを隠しているのですから弱虫なんです。人間は強いか弱いのどちらかであって中間はいないのです。
中間とは弱くもなく、強くもなくでは無くて強くて弱いことです。
でも要因が作用した結果は強いか、弱いかのどちらかが、結果として現れるのです。
結果は強いか弱いのどちらかであって、中間とは要因が作用するまでの姿といえます。強がりは結果を偽っているのです。偽りから真実を認識することはできません。
強がりを弱いと認識すると真実が見えてくるのです。
「弱い」とは、様々な文脈で異なる意味を持つことがありますが、一般的には以下のような時に認識されることがあります:
能力や力が不足していると感じるとき:自分のスキルや能力が他人と比べて不足していると感じる状況で、「弱い」と感じることがあります。
逆境や困難な状況に立ち向かうことが難しいとき:困難な状況に直面して対処する能力が不足していると感じると、「弱い」と感じることがあります。
自信がないとき:自分に自信が持てず、自分の意見や行動に対して不安を感じるとき、「弱い」と感じることがあります。
社会的な評価や他人の意見に敏感なとき:他人からの評価や意見に左右されやすく、自己肯定感が低いとき、「弱い」と感じることがあります。
身体的な健康や状態が悪いとき:体調が優れない状態や、身体的な弱さが感じられるとき、「弱い」と感じることがあります。
ただし、人々の感じ方や状況によって異なるため、一概に定義するのは難しいかもしれません。
弱いとわかればその弱い部分を補強すれば強くなれますが、強がっていると自分の弱い部分を見つめることはできないのです。
強がらず、弱がらず。素直に真実を見ましょう。真実は変化しないのです。
変わったと思うのは新しい事実がわかったからであって真実は少しも変わっていないのです。真実ではない事実を知りましょう。
その判断は自分の信念を信じることです。真実から学ぶことで自分の判断基準を進歩させて信念となるのです。
学ぶとは疑問に対する解答を得ることです。暗記ではないことを肝に銘じてください。愛という漢字はどうして愛なんだろう?
愛は、音を表す「㤅(アイ)」と、意味を表す「夊」が組み合わさってできた形声文字です。
「㤅」は「旡+心」で成り立つ文字で、「旡」は、いっぱいになって詰まり、ふさがっている様子を表しています。
そこに「心」がくっ付くことで、「胸がいっぱいになる」というまさに恋愛の意味として作られた文字なのです。
ところで愛は、「㤅」だけでも愛の意味として成り立つなのに、なぜわざわざ「夊」という文字を付けたのでしょうか?
「夊」は足の動きに関連した意味を持つ文字なのですが、「夊」は足を引きずっている様子を表しているのです。
これは、軽快に歩くのではなく、足取りが重たく、今にも止まってしまいそうな動きなのです。
このことから、「夊」をつけることで、より心残り感を出せるようになりました。
「足取りが重くなるほど切ない想い」、これが愛なのです。
愛という字を学んだことで愛の使い方が変わってきますが愛の真実はなんら変わっていないのです。
弱がりませんが強がることもしません。わたしは学ぶことで強くなるのです。