女神転生5クリアの省察
とうとうクリアしたぞ!
千代田区に、一年かけたけど!
というわけで、省察。
端的に言うと、今回のメガテンはニーチェの引用であった。
キャッチコピーの「汝、神と為れ。」も、「超人」の一節である。
主人公は読書家の美少年で、デモ映像見た下馬票では、ミルトンの失楽園読んでいるように見えたが、それは実際、神は死んだ。であった。
さてさて。
物語の最最最序盤で、神が死んで、主人公はその後のカオスな世界をどう生きるのか、という展開が描かれる。
これは、時代の変化と言うものを如実に表現していると言えるだろう。
これまでは(ルートにもよるが)
良くも悪くも、テトラグラマトンこそが、人類の乗り越え打ち倒すべき敵、ヘブライ語でいうところの敵=サタンという位置付けのストーリーが、毎度、展回していた。
今回は、その倒すべき敵が、すでに殺害されていた。
だから、敵のいない世界で、身内同士で骨肉の争い!
が、物語の軸とされる。
そもそも、オープニングの開幕、セフィロトの樹の下で、明かされる、、、
知恵を封じられた神が、悪魔とされ、己の力を取り戻す手段として、人間を喰らう、というストーリー自体が、身内のいざこざ感満載だ。
現実世界に対応すれば、町山智浩氏の、この記事とか、
https://miyearnzzlabo.com/archives/31555
https://logmi.jp/business/articles/101608
https://miyearnzzlabo.com/archives/56216
を読めば、すでに理解できると思うが、もはや、
人が人を洗脳するカラクリとかは、オープンソースになっている。
ネット時代では、組織が人を操る政治の道具として機能し得なくなっているのである(少なくとも理性を保てる環境のある人間に対しては)
個人のペルソナの、再定義と細分化、それによる思想の分断と排除。
世界宗教は、メディアの発達、個人の自己感覚の領域肥大による密告、そして秩序立てられた法律により、内部から自己崩壊した。
フランスの思想家デュルケームが、自殺論の中で私たちに示してくれたアノミー的な世界を、私たちは生きていて。
全ての問題は、敵ではなく仲間から、生じてくるのである。
その敵こそ仲間という逆説的な世界の中で、
どう善く生きるのか?
という問いを、このゲームはことあるごとに選択肢にて、なげかけてくる。
換言すれば、人種、性別、年齢超えて、ダンバー数に基づく人間の群れ
という社会単位、現代社会に通底する概念を抉り出し表面に浮かびあがらせることを目的とした意欲作、であるわけだ。
メタ的なことを言えば、絵師を金子一馬から、リニューアルして、土井になったように。
つまり今までのシリーズの伝統的な物語群からの脱却が、今回の5では図られている。
これは、ヒロインが、娘、母、妹と、それぞれ属性がカオス、ロウ、ニュートラルと別れつつ、描かれていることにも照応する。
核家族化が進行して、ネットの発達による個人趣味や属性の細分化、ならびに、分断と排除の進んだ現代社会の恋愛=人生の道において、私たちが望むと望まざると受容せざるを得ないのは、
現代社会はある意味、
「異性と家族になる」のではなく、家族が異性になると言う、逆説的な問いかけに対して真摯に向き合わなければならないという、実相だったと言えよう。
換言すれば、インターネットを作って、人は、恋愛を石器時代に再帰させたということだ。
地平線はどこまでも広く、その中で運命的な出会いは存在せず、その広大な世界で、友達や、知り合いが、家族に変わると言うなんとも牧歌的な文脈である。
これは有史以前の
エジプト神話であり、ギリシャ神話であり、そして、イザナギ、イザナミの日本神話の復権であり、デジタル世界における再構築と言えるかもしれない。
デジタルでも、人は己が仲間の集合と拡散を繰り返し、モノジイズム(唯一神論)ではなく、ポリジイズム(汎神論)の世界を築く。
まあ、デーモンという単語自体、
本来の意味合いは、ニュートラルな「精霊」というものであり、
そもそも、デジタルという単語も、原義は、「指」だ。
悪魔の蔓延る東京は崩壊して廃墟になっているし、主人公はサイボーグ悪魔と合体して無機質な外装を得ている。
が、そういう冷めたビジュアルとは真逆に、心温まる会話、交流が、主人公と悪魔たちとの間には描かれている。
これは、世紀末、90年代のギャルゲーが描き出した、世界だ。
トゥーハートのマルチとか、思い出さない?
しかし
、その焼き直しでは終わらないのが、メガテンシリーズなのだ。
電気抵抗のない乾いた冷たい物語ではなく、血の通った暖かい物語は、それゆえやがて、血を流し、撒き散らし、血生臭い、身内争いへと、歩みを進めていく。
ニーチェを引用すればあなたが深淵を覗くとき、深淵もまたあなたを覗くということだ。
これは自分自身が深淵かもしれないということに、言い換えることが可能となる。
もうちょっとだけ続く。