揺れて生まれ変わって、教養
くだらないことを考えるのが好きだ。
わかっても人生に得がないようなことを。
教養と知識の違いはなにか。
最近はずっとそんなことを考えている。
本をいっぱい読んでいることと
教養の有無に相関はあれど、因果ではない。
誰かが言ったその言葉は正しいのか。
じゃあ教養とはなんなのか。
一度気になると、もう思考は止まらない。
ずるずると考え続けてしまう。
小さな頃から両親が本を読む姿を見てきた。
父は伊坂幸太郎や東野圭吾、
母は宮部みゆきが好きだった。
本を読めと言われたことはないが、
気づけば自然に手を伸ばしていた。
初めて読んだ本は容疑者Xの献身だった。
何度も読み返したし、今でも人に勧めることがある。
大学2, 3年生になると、
通学のバスの時間や授業の空きコマで、
隙あらば本を読んでいた。
年150冊近く読んでいたと思う。
学術系の本からビジネス書、
推理小説にSFと気になったものは
手当たり次第に買って読んでいた。
この頃、月4万円ほどのバイト代は
ほとんど全て本に消えていた。
今はだいぶ落ち着いた。
半分以下の読書量だと思う。
それでも当時と今の自分を比べると
今の方が人として大きくなれている気がする。
いわゆる "教養" みたいな感覚だ。
ただこれが何なのかはわからない。
ここ数日ずっと考えて、やっと一つの暫定解が出た。
それは、
自分の価値観が揺らぐような経験の中で、
不安を抱きつつも新たな思考の枠組みを希求する
この一連の営みの積み重ねで
塗り替えてきた考え方の層の数が圧倒的に違う。
ということである。
"教養" と聞くと、僕はこれを思い浮かべる。
今までは確かにたくさん本を読んできた。
でも "教養" という観点からすると、
本を読むことは手段でしかない。
なんのための手段か。
未知の価値観に触れ、
今の自分の思考の枠に危機感を覚えるためだ。
つまり、年150冊読もうが、
自分の価値観にヒビ一つ入らなかったのであれば、
それは "教養" にはなっていない。
知識として外部に付属しただけだ。
もちろん書籍の持つ意味は
"教養" の獲得には限定されない。
娯楽として楽しむという観点もあるし、
それを全く否定しない。
ただ、"教養" と知識の違いは
念頭におくべきだし、
冊数だけで何かを語ることはできない。
数は、機会の言い換えでしかなく
それをモノにできるかどうかは別問題である。
まさに冒頭に述べた通り、
相関はあれど因果ではない。
大学3年生のとき、
二人の高専生との出会いで思考の枠が外れ、
生まれ変わったような感覚があった。
その後もいろいろな方との出会いに恵まれた結果、
視界がクリアになっている感覚がずっとある。
最近そのことを両親に話すと、
両親からでさえ新鮮に学ぶことが
たくさんあることに気づかされた。
視野が広くなると、
今まで読んできた本にも
新しい見方ができるようになり、
同じ本をぐるぐると何回も読むようになった。
「ナナメの夕暮れ」や「どうしても生きてる」を読みながら
心動かされる自分の存在にひたすら驚いている。
そろそろ長くなったので締めたいと思う。
どれだけ活発に動いていても、
どれだけ学歴があっても、
それは教養には関係ない。
僕はそう思う。
今まで会ってきた素敵な人たちはみな、
面白いことに貪欲で、
時に、それが自分の胸に刺さるようなものであっても
歩みを止められない。
その結果、元の自分と新しい価値観が混ざって
全く別の存在になることも厭わない。
そんな人たちだった。
価値観が変わって、
昔はそんな "教養" 論を展開してたなぁ。
と未来の自分が笑っていることを願って。
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