このエッセイは、【写真展】 -あの頃の君へ、これからの君へ-で展示される写真に込めた内容を、心の整理のために書いたものです。写真展では100〜120字ぐらいのキャプションで記載されています。以下、本文↓
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“Googleは神だ”とある人が言った。検索窓に書き込むと答えがもらえる。確かに、私たちは”全知全能の神”を発明した。下駄箱に置けば、上履きの住処は教室に変わり、先生は友達になる。必要な事は検索窓が教えてくれるから、もう先生も学校も大学も要らない。そう言っている様に思えてくる。
ある米国ドラマで、”学校での祈りについて、是非を問いたい”というシーンがある。合衆国憲法で宗教の自由な行使への妨害を禁じながら、学校では”祈り”を捧げた生徒が体罰を受けている実態に言及している。宗教の自由を保障するため、学校における特定宗教への支持をせず、それによって学校での宗教的な言動を指摘せざる得ない矛盾が垣間見える。
今は違う。光る画面にある検索窓に祈りを捧げれば、神の解答が検索結果として無数に並ぶ。教会の牧師よりも誰よりも的確で、可視化された都合の良い解答が並ぶ。しかし、答えるのは神ではなく、無数の他の誰かだ。私たちは、検索窓の向こうに新しい神を創造した。
古い話だが、ポケベルやPHS、携帯電話は”学校に不要で、学校の勉強の妨げになる”として持ち込みを禁止されていた。しかし、もう学校が不要かもしれない。ある実業家は、”学校の先生よりも動画の方が有益だ”と言って、”学校なんて要らない”と叫んでいる。そもそも、学校に行かなくても授業が受けられる様になってしまった。友達も恋人も先生も、欲しくなったら検索窓に祈れば良い。欲しいものは検索窓から手に入る。
大学の先生だった父親は、大学に入学する際に”教科書の行間を埋めろ、そして教科書を疑え”と言った。私たちが生きるために信じた神は、生きるために答えの無い矛盾を生み出したが、検索窓に新しい神が創造された事で、その存在が矛盾とともに揺さぶられている。
当たり前と信じた事は、いつかは消える。下駄箱に置いた検索窓は、世界への入口でありながら、その存在は学校そのものの意味を揺さぶっている。自由を得るために、人間らしくあるためにあるものが、実は種々の矛盾を生んでいる状況に、どう向き合うべきなのか、私たちの叡智と未来への祈りが問われている。