生きるための自由意思

自由意思については哲学のテーマになるようだ。究極的な答えは不明だが、私は一般的に考えられる自由意思について考えることならある。

自由意思について考えることは、何かの岐路に立った時に必要になるかもしれないからだ。答えが不明な究極的な自由意思はこの際には役に立たない。

自由な意思を使うには条件が必ずついてくる。また、自由意思によって「何かに成れる」という選択ができるわけではない。
自由意志を功利的な欲求を満たすことには使えないかもしれない。
AかBかを選択しなければならない場合、どちらを選択するかは簡単だ。しかし、仕事を辞めるか続けるかどうかの選択は迷う。就職か進学かもそうだろう。異性の獲得にもそれはある。条件によって左右されるのだ。
自分に自由な選択権があるにもかかわらず「損か得か」によって迷うのである。「損得」を除外するなら何を選ぶかを考えてみると答えが別になることはよくある。
自由意思のほとんどは、自由ではなく「損か得か」の功利的な心理や「好きか嫌いか」の心理の条件の中で決定している。
自分のことはわからなくても他人のことならよくわかるというのは、「損得」や「好き嫌い」を除外して評価することができるからだ。
それなら自由意思にそれらを関与させなければいいと思うのだが難しい。
一般的に生きる上での自由意思の使い方は何を選択してもいいが、条件は「反社会的でないこと」それが人間社会で生き抜くには必須だ。
生きていくには必ず条件がついてくる。究極の哲学的自由意思を求めなくても、この条件を満たして何でもやってみることだ。
そうすれば自由意思とは何なのかを体験できるはずだ。

しかし、哲学ズキの人は、ホント難しい話をしたがるが実践向きでない話がほとんどだ。なぜなら実践に移すと途端にちっぽけな話しだと気づかされるからだ。

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