外見で人を判断するなというが本音はどうだ
はじめに
ぼくは人を外見で判断する。
「人は外見では判断できない」「人を外見で判断してはいけない」と怒る人がいるが、それは本気で言っているのだろうか。
「容姿が」というなら賛同する。しかし、「外見」と付くと「…」となる。
「自己主張する自分を認めろ!」という意味で言われているようで落ち着かない。本能がざわつくのだ。
ぼくにも意見がある。
たしかに、どこにでもいそうな人が、とんでもないことをしでかすことはあるが、とんでもなさそうな人が、とんでもないことをする方が多いような気がし、また、その方が想像しやすい。(思い込みなのだが)
当然ながら、普通によく見かける外見の人にも注意がいる。
なぜ外見なのか
奇抜な外見をした人と、ごく普通の外見の人では、どちらが自分に危害を加えそうかと考えれば、誰だって外見で判断するものだ。むしろそうしない人の方がおかしいとさえいえる。
ぼくはどちらにも油断しないが、そう考える人はそういない。
「外見で判断するな」と言っている人であっても、奇抜な外見の人に対して、簡単に気を許したりはしない。
刺青入れたヤクザのおじちゃんは、刺青入れた人を見ると同業者だと思い警戒するはずだ。
外見は心の表れかも
外見にはその人の心が表れるものだ。
胸の大きな人は、それを強調しているし、鍛えた野郎は、それをむき出しにしている。誇りたい気持ちを外見に表さないと気が済まないのだ。
そういったものを隠す人は、奇妙な自己顕示欲がないのか、または、それを表さない人か、それを隠す理由のある人だ。
外見で判断するなという人は、そんな簡単なことを理解していない。
外見に警戒する
人は、先ず外見から判断して警戒するかどうかを無意識に判断している。
外見で判断しているのではなく警戒しているのだ。
それを知っている人は、外見から警戒されないように振る舞うのだ。
好きな異性に好かれるために、わざわざ警戒されるような外見を選択したりはしないだろう。
「いや、ワタシはする!」というなら、本当にしたいことは別にあるはずだ。
人間の行動には必ず理由がある。その理由を推理する能力も生まれながらにしてある。だから外見は大切なのだ。
外見からの推論
外見が普通だからといって、自己主張ができていないと推理するなら、外見が判断材料になっている証であることに気づいた方が楽になる。相手も同じことを思っているのだ。
「人は外見で判断する」これはもう間違いのないことなのだ。否定しようにも否定できないものなのだ。
だからといって、外見を変えろと言っているわけではない。その必要もない。好きにすればいい。それとこれとは別の話だからだ。
自己主張がどこまで通せるかは、大切な課題だというのはぼくにもわかっている。