アートについて

備忘録なので無視してもらって構わないが、私はときどきアートについて考えることがある。
「そんなに難しく考えなくても…」と言われるがはっきりしておきたいと思うのだ。
美術評論家のハーバード.リードは「芸術は必ずしも美だけではない」と言い、芸術哲学者のスザンヌ.K.ランガーは、「内面的な本質を外に示すことであり、主観的実在の客観的化である」といい、「主観的生命の客観化である」ともいう。
つまり芸術は「主観的な感情を客観化すること」だといえばいいだろう。
「アート作品とは、熟考もしくは理解を促す可能性をもつもの」としたのは哲学者のジョージ.ディッキーである。
総意ではないとしても「アート=美」ではない考えもあることは重要だ。私は「アート=美」とは思っていない。
ディッキーの定義に従うと、能動的な意思による生きる行為は「生きること=アート」ともいえる。その生き方から何かを考えさせられることがあるからだ。
絵描きさんや鑑賞者は「アート=美」ととらえている人は多いように感じる。美こそ芸術だと思い込んでいる人もいる。
また、絵を写真のように描こうとする人も多いので、それを見た人は「写真みたい」と言うが、事実、写真を見て描くのだから写真に見える。
写真のように描くことは芸術というよりも職人技のように思えなくもない。そこにこだわり過ぎると「写真>絵画」となり、そうなると、もはや絵画は芸術と言えるかどうかわからない。
そして、写真の決定的瞬間を捉えて編集する圧倒的な力には、絵を描くことでは太刀打ちできないものがある。そういった瞬間を描こうと懸命になるなら、写真家に転身しなければならなくなる。
芸術として絵を描くことの意図と写真を撮ることの意図はおそらく違うはずだ。
芸術とは何だろう、この答えがランガーのいう「主観的な感情を客観化すること」を表そうとすることではないかと思うのだ。
写真は決定的な瞬間をとらえようとする感情、または態度があり、絵を描くことは普遍的な何かをとらえ、表現しようとする行為でもある。
ま、そんなややこしいことを考えなくても好きにすればいいのだが、周囲の評価を絶対視しようとする傾向に楔を打っておきたいのだ。
私は、ランガーのいう「主観的感情の客観化が芸術である」と考え、さらに、ディッキーのいう「熟考もしくは理解を促す可能性をもつもの」という芸術の定義に従おうと思う。

公開はしないけれど、つい最近、現代アートというものを描いた。現代アートについて何もわからないまま描いた。もしかするとそれは現代アートではないのかもしれない。
一つ言えるのは、主観的感情を客観化した作品にした。

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