自由について

真理に至ると自由になれるという話があるが、それは本当のことだと思う。ただ、その真理に到達する人は少ないといわれるのも本当だろう。
巷での「自由になりたい」という願望のほとんどは、「気ままに暮らす」「快適に暮らす」といった好みの問題であり、自由とは関係のない話をする。
それは自由と言わずに、素直に気ままに暮らしたいと言った方が正確さに近づくはずだが現実化するかはまた別の話でありそれが真理でもある。
自由は真理によって制御されることでもあり、好みや気ままなど出鱈目でいると、かえって制限がかかり不自由になるものだ。
自由になりたければ気ままさを捨て真理を得ようとすることの方がはやい。
やっと私もそれくらいのことが言えるようになった。
気まま我儘を自由と混同するから不自由になるということは矛盾しているように思えるが真実だ。
それがわかれば、これまでよりも簡単に、うまく心を制御でき自由に近づくはずだ。
脳や心は、未知のことを知ろうとし、推理し、蓋然性を高めていく自動的な働きが自由を妨げることもある。制御するなら新たな知識を要する。
そこから生じる葛藤や迷いや不信、不安、心配、自信などの経験が心を作り上げていく。
そうなのだとしたら、私たちが何をすればいいかもわかってくるはずだ。
自由は簡単に手に入ることはなく、不断の地道な努力があっても完全な自由を得ることが難しいのは「死」という真理があるからだ。
「死」に近づくに連れて完全な自由から遠去かるというのではなく、むしろそれに近づくといってもいいのではないだろうか。
かといって、「死」が完全な自由を与えてくれるのではないことはわかると思う。

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