思考は思い込みや印象を取り除くこと
私も含めた全てのヒトは思い込みによって思考を停止するものである。このことは、考え方を更新することが出来ずに、環境に適応出来ない、という生存を危うくする状況に陥る蓋然性が高いともいえる。
街でブツブツと何かを呟きながら歩いている人を見ると「危ない人」と思うかも知れないが真実ではない。
酒鬼薔薇聖斗事件を覚えている人はご存知のように、目撃者の話には「黒いゴミ袋を担いで歩いているおじさんを見た」というものもあったが事実は中学生だった。
最近では斉藤元彦兵庫県知事の話なんかも面白い。
「知事=悪い奴」という印象を持っている人は、「アイツは許せない」と言うが「印象通りに知事は悪い奴」という確信でしかない。真実とは別なのだ。
兵庫県養父市や観光協会が「おねだりされた事実はない」といち早くマスコミ報道を否定したにも関わらず「いやおねだりしたはずだ」と自分の印象と違う情報を拒否しようともする。
「いやいや」と言おうものなら「人が死んだんだぞ!」とおねだりとは関係ない話を持ち出すのである。だからおねだりも真実なのだと言いたいのだろうが飛躍である。
何としてでも「知事=悪い奴」にしたいのだ。
パワハラする奴はおねだりもするに違いないという印象からの発想だ。「だから知事は悪い」と短絡的になりがちだが真実を見抜くにはまだまだ思考しなくてはならない。
思考は時間の経過によって「どうやらこういうことらしい」という結論に近づくのである。
思考をしないでいると、人間の心は印象と合致した時に確信となる。「やっぱりそうだ!」といった程度のものだ。
真実を探究するには何度も何度も状況と真実を照らし合わさなくてはならない。それでも間違う。
思考するというのは印象や思い込みを取り除くことでもある。このことは学校では習わないので社会人になってから能動的に学ばなくてはならない。
画家の高塚省吾さんが著書の中で、うまく描ける人は何度も何度も対象物を見るが、描けない人は見ないといった趣旨のことを指摘されていた。
これは事実で、私は人物デッサンの集まりで描くことがあるが、観察しているとモデルを見ないで描く人は多い。すると完成した絵は外国人なのに日本人であったり、年配のモデルのはずなのに若い人になったりするものだ。えらい胸大きいなとかもある。
指摘されると「デッサンはそっくりに描く必要はないんだ!」と自分の思い込みや印象を言い訳にする。そっくりに描く必要がないならモデルは要らないと思わないだろうか。
ヒトの多くは考えているのではなく「思っている」だけなのだ。思考は誤りを修正しながら真実に近づいていくが、「思い」には修正する意図も努力もなく、厄介なことに、自分は正しくて相手は間違っているという思い込みや印象によって作られていることがほとんどなのである。
長くなってしまった。
もしよければ、試しに身近な話題に対して、思い込みや印象で評価していないか「考えて」みてはどうだろうか。