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32作品目 小説「メメントラブドール」(市街地ギャオ)

どうも自家焙煎珈琲パイデイアです。「淹れながら思い出したエンタメ」が32作品目になっております。
夕方、気ままに散歩をすると、風が気持ちよくなってきました。
やっと秋になったか、と思うのですが、最近の夕涼みの風は、小学生の頃の夏休みの最終週がこんな感じだったような気もして来るのです。
すると、まだ晩夏なんでしょうか。どちらにしろ朝夕の珈琲が美味しい季節になってきました。


今週の書き留め作品
「メメントラブドール」について

今週の書き留めは今年の太宰治賞を受賞した市街地ギャオさんの「メメントラブドール」です。
まあ、なんというか現代的というか、おそらく、石原慎太郎さんの「太陽の季節」とか、それこそ、太宰治の「斜陽」とかが発表された当時はこれくらいのパンチがあったんだろうな、と思います。

余談ですが、平成初期生まれの私は、ダウンタウンの凄さも、ビートルズの衝撃もピンときません。その当時すごかった、という現象は事実としては知っていますが、物心ついたときにすでに確立していた伝説の本当の凄さはあの時代を生きていないと、温度感まではわかりません。
そう意味で、作者がジョンレノンなら、私は肌感覚で衝撃を体感しているのかもしれません。

会社員として働きながら、男の娘をコンセプトとしたコンカフェでバイトする主人公のうた(柊太)。
会社員としても、コンカフェキャストとしても無気力な彼は、マッチングアプリでマッチしたストレートの男性と「ヤる」、いわゆる「ノンケ喰い」を動画に収め、SNSに投稿することで、常に唾棄し続けている社会と繋がっている。

フィクション作品における「解像度の高さ」は
固有名詞の多用と関係あるのか

まず、この作品、固有名詞が多い。
見開き1ページ目早々に「Tinder」「Pairs」「菅田将暉」「山崎賢人」「広瀬すず」「橋本環奈」「カカオ(トーク)」「パルデアポケモン」「チー牛」と
固有名詞が次から次へと飛び出します。それからスラングも同じくらい乱立します。先の自民党総裁選。
散らかった固有名詞と無造作なスラングは丁寧に片付けられることなく、主人公がマッチグアプリでスワイプするように流れていきます。

固有名詞の多さに気を取られているけど、内容もなかなかにショッキングな場面です。
マッチングアプリでマッチした男性との逢瀬がかなりリアルに描写されています。
マッチした相手は「あ」という、RPGの主人公だったら「ああああ」だったくらいのありきたりな匿名性。これが唯一、自ら望んでいる社会との繋がりなのです。

フィクション作品の解像度、ということを時々、私は考えます。
その虚構の物語がいかにも現実のどこかから切り取られているように錯覚する、私がここで解像度の高さとはそういうことです。
登場人物たちが住む世界が、解像度の高い虚構であればあるほど、彼らの経験すること、思考することは現実の私たちに近い、共感生を帯びたものになると、思うのです。

今作のように、これだけ固有名詞が並んでいると、それだけで、虚構の世界が現実の世界により似せて作られているような感覚になります。
しかし、そんな表層を解像度が高い、といってしまっていいのか。

主人公がいちいち取っている社会の揚げ足には共感があり、彼を取り巻く人物が、いかに彼を生きづらきさせるか、ということは既視感があります。

「SEだっけ?そんなに偉いのその仕事」

私が妙に親近感を覚えた場面です。
派遣切りにあって、いかにも仕方なしにやってるコンカフェの雇われ店長が正社員として片手間にキャストをやっている主人公に対して放った一言です。
この門違いの妬みをぶつけられる理不尽が向けられた主人公よりも、この妬みを抱えてしまう店長にもどこか共感を持ててしまいます。
それが私の近くの主人公を生きづらくしているかもしれない、理不尽に形を変えて誰にもぶつけてないよね、と内省してしまいます。

固有名詞を張り巡らした壁紙でなく、屋台骨そのものが、私の住んでいる現実と同じ構造で、そんな中を行き交う登場人物たちに解像度の高さが見られます。

主人公の居心地の悪さ
それを読んでいる読者の居心地の悪さ

おそらく私は主人公より5年くらい上の世代だと思います。
彼の言っていることの半分はわかって、そのうち半分に共感して、もう半分に納得いかず、残りの半分はわかっていないのです。
っていうと、なんともわかりづらい書き方です。
つまり、彼のいうことの1/4を理解したうえで共感し、1/4は理解したが納得せず、1/2は理解すらできていない、という感じでした。

彼があたり構わず唾棄する毒が時には自分に向けられているようにも感じるし、通読中、終始漂うお呼びじゃない感。植木等じゃあるまいに。
しかし、この読者が感じる居心地の悪さは、作者の目論見のような気もするのです。
我々のどことなく落ち着かない、居心地の悪さ、つまり、これはマッチョイズムの男性社会の会社では優秀な後輩に追い越されそうで、女性コミュニティのコンカフェでは雇われ店長に無気力を指摘され続ける、そんな環境下にいる主人公の心地の悪さの疑似体験的とも言えるような気がするのです。

私たちは本を閉じて心やすい友人と言葉を交わせば、すぐに自分を受け入れてもらえます。
しかし、主人公は居心地の悪さに縛られて、この物語に閉じ込められています。そんな彼にとっての唯一の心やすい瞬間が、毎週火曜日のバキ童みたいなおじさんだったのだと思います。
そんなおじさんは、主人公が雇われ店長に屈して、男の娘の格好をした日に消えてしまいます。
私はこの構図に息苦しさを感じました。

その一方で、最初は動画を撮ることすら拒否していた「カズ」が次第に主人公の生活に溶け込み、彼もそれを「恋人みたい」と考えるほど、受け入れいていきます。
しかし、主人公は「カズ」に対して、踏み込み方を間違えながら、距離感を縮めてしまいます。
社会に対して毒付くことことしかしてこなかった主人公の不器用さだったのでしょう。

おわりに

小説には読みづらいと読みやすい、肌感覚に合うと合わない二つの軸があると思っています。
それでいうと、今作は読みやすく、肌感覚に合わない、作品でした。
この場合の肌感覚に合わないは、この作品の落ち度ではなく、逆に作者による蜷川幸雄級の演出だと思います。
それは居心地の悪さ、という言い方で前に述べた通りです。

私にとって、太宰治は読みやすく、肌感覚に合う作家です。
だからどうだ、ということはないのですが、太宰という名の賞なので、太宰に意識が向くことだって自然でしょう。

主人公の社会での居心地の悪さを、読者に追体験させるような演出が巧妙だな、と思った作品でした。

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