なぜ私は「理」を考えるのか②


普遍的な「正しさ」などない

 普遍的な「正しさ」はどこにもない。我々が常日頃から「正しい」「正しくない」と判断する際には、必ず倫理観やルールといった寄る辺を元にしている。つまり参照するものがなければ、そこに「正しさ」は生まれない。そして参照するものは人それぞれ異なっており、解釈も違ってくる。結果として、人と人の間には常に「何が正しいのか」という衝突が生まれてくる。

正しさの最小単位としての「理」

 前回述べた通り、”それ”が”そこ”にあるという「理」には形而下での「正しさ」が存在する。これは素粒子の存在を突き詰める科学的にも、説明がつくものとして定義される。正しさの最小単位として「理」が存在するのだ。この「理」を根底にした「正しさ」こそ、普遍的な「正しさ」になりうるのではないだろうか。

「理」はどこにあるのか

 形而下での事象に「理」は存在する。つまり”物質”が”そこ”にある理由だが、物質から「理」を取り出すのは非常に難しい。難しいというより、知覚することは不可能なのではないだろうか。触覚、味覚、視覚、聴覚、嗅覚でしか人間は事象を捉えられない。第六感があればよいのだが、今現在それは叶わないだろう。
 しかし私達が「確実にある」と胸を張って堂々と言えるものが存在する。それは五感を使わずに、どんな人にも必ず存在するものである。

 それは「感情」あるいは「自分の考え」と呼ばれる。

人間の心から生じる「感情」という「理」

 あなたの心(でも胸でも頭でもどこでもいいが)に浮かんでくる「感情」は必ず自然に湧き出てくる。それは外的な刺激に対するあなたの心の反応であり、それが心にあることは「正し」く、すなわち「理」である。どんな状況であれ、あなたの心から「いやだ」「つらい」「うれしい」「たのしい」「だいすき」という感情が湧いてくることは正しい。”感情”が”心”に存在するのは「理」であると定義できる。

どんな感情を持つことも正しい

 あなたに嫌なことがあった時、悲しい出来事があった時。それを「いやだな」「悲しいな」と感じることは「間違い」ではない。それは「正しい」。
 あなたに嬉しいことがあった時、美味しいものを食べた時。それを「嬉しい」「美味しい」と感じることは「間違い」ではない。それは「正しい」。

 様々な感情が生まれること自体に悩む必要はないのだ。

今回はここまで。適宜理論の穴などがあれば指摘いただければ幸いである。

 

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