なぜ私は「理」を考えるのか⑧
感情を分解において、最小は人それぞれ
ある事象に対する感情を分解して「理」を取り出す際、最小単位は人の人生経験(という概念)に依存する、というのが前回述べた流れだ。簡単、かつ乱暴な言い方をすれば、「その人がもういいと思ったところが最終地点」というわけである。
例を出そう。
感情の分解の合言葉、「なぜ」
ある事象に対する感情が湧いた。さてそれを分解しよう、となった際にどう求めればいいだろうか。自問自答が有効な場合がある。
性懲りもなく、この事象を使おう。
感情に注目すると、ムカつくから「なぜ」と自身に問い続けることで省略されている感情に気がつくことができる。そこから分解を、なぜケーキは美味しいのか→甘いから、とように分解していくと、ケーキは甘いから美味しい。という感情を取り出すことができる。
人によっては、この感情の「理」は「甘いことは美味しい」なのかもしれない。この人にとっては、これは「理」である。
しかし人によっては、「嫌いな人が得をするとムカつく」が最小なのかもしれない。これも別の「理」だ。
分解の結果、ムカつくの感情からは2つの「理」が取り出せた。
自問自答は常に必要。しかし、
ここまで分かる通り、省略した感情を復元して「理」を取り出すと、省略部からも取り出すことができるが、もとからある部分からも取り出すことができる。
そう。残念ながら「ムカつく」という感情は正しいのだ。
はじめに自分の中に生まれでた感情は、どうあがいても正しくなるという結果が生まれる。
どんなに省略した感情を復元しても、最小まで分解をしたとしても「~だからムカつく」という項が必ず出現する。
最初に生まれでた感情は「正しい」のだ。「正しく」なってしまう。
他人に「ムカつく」のは間違っているか
「ムカつく」が本人的に望ましくない感情だったとする。その場合、「ムカつく」という感情をもつと、罪悪感を持ったりするのではないだろうか。こんなことを考えてはいけない。私は間違ったことを考えている。などと。
そんなことはない。事象に応じて感情が生み出されたのならば、それは「正しい」。もちろん、その感情だけが正しいのではない。省略されている部分にも「理」は存在するので、そこにも「正しさ」は存在する。
しかし、あなたの中にその感情があること、それ自体は「正しい」のである。
何を考え、何を思ったか。おしなべて「正しい」
この結論に至るまで長いことかかってしまったが、結局私の出す結論は「感情は正しい」ということである。どんな望ましくない感情も、受け入れがたい感情も、嬉しい感情も、それ自体が存在していることは「正しい」のだ。
もしあなたが普遍的な「正しさ」を求めるのであれば、感情を探してみるといい。なぜなら感情は必ずあるものであり、「理」だ。それを内包している感情は「理」であり「正しい」
「正しさ」の判断に迷ったときには、見えるものや聞こえるものを探しても意味がない。自分の心の動きに意識を向け、感情を探すことが第一にするべきなのである。
ひとまず「理」シリーズの「個の感情編」はおしまいある。
次回以降は「集団編」に入っていければと思っている。
今回はここまで。適宜理論の穴などがあれば指摘いただければ幸いである。
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