小麦を蒔く その4
11月9日、種を蒔いた翌日。大雨が降った。外出中の私の代わりに父が麦畑の様子を見に行き、電話をくれた。「種に土をかけた部分がほとんど雨で流れてしまい、種がむき出しになっている。これじゃあ鳥に食われちまうよ」。
翌日になって雨が上がり、朝から晴天だった。午後には大雨でぐちゃぐちゃだった土も乾き、今が土かけ作業をするチャンスだ。慌てて車を飛ばして畑に駆けつけた。麦畑には早くも鳩が二羽、美味しそうに種をついばんでいた。この時、どこにでもいるごくごく普通のグレーの鳩がクルッククルック鳴きながら麦を食べる姿を見て、心底憎いと思った。何食べてんだ、こらー!!自分で労力をかけて蒔いた種をポッポポッポと食べられたら、そりゃ腹も立つ。今なら畑で排泄する野良猫に石を投げていた、かつての祖父の気持ちも理解できる。当時はひどいと思ったけれど、昔の人は愛玩動物に対する考え方が現在とはだいぶ違っていた。もちろん猫はかわいそうだ。私も猫を2匹飼っているし、自分は猫に石は投げないと思う。だけど、畑はトイレじゃないし、肥やしにするには長い時間が必要だ。ただ排泄物をほっといて堆肥になるわけではなく、定期的に混ぜて分解するための酸素を送る必要がある。その間の臭いの問題もある。
話は逸れたがまずは自分の作物を守りたい、そんな気持ちが芽生えた。自然農法的には鳥も猫も循環する環境の一部であり、彼らの食べる分は残し、人間と共存すべし、なのかもしれない。農法であって感情的な問題ではないことはわかるけど、今の私はそこまで広い視点で思いやれる心の余裕がない。実際やってみると、私はただ種を蒔いただけだというのに、すでに麦に愛着(もしくは自分の労力に対する執着)が湧いている。善悪は置いておいて、そんな風に思うような段階なのだ。経験を重ねると変わるのかもしれないが、本を読んで頭で理解するのと、体を使って湧き上がる人間的な感情とはだいぶ違いがある。
鳩は私が少し近づくとあっさりと飛び立った。雨に流されながらも、麦はちらほらと発芽していた。
2月14日。麦は寒空の下、すくすくと育っていた。青々しい麦の葉が隙間なくみっちりと生い茂っていて、むしろ種の蒔く量が多過ぎたようだ。発芽した後に葉を足で踏む、麦ふみという作業があるのだが、使用した「さとのそら」は品種改良したおかげで麦ふみは必要ない、とTさんはおっしゃっていた。私の場合はあまりにも密集して葉が生えてしまったので、その必要はなさそうだ。
麦のことは自然に任せ、私は確定申告や仕事や飼い猫の世話に追われているうちに、世界では大国から小国への侵攻が始まってしまっていた。気が気じゃないのでインターネット上でできるだけ複数の国の情報を集めると、自動翻訳を駆使しつつ量が多いので疲れるし、何よりも凄惨な画像や動画を目にすることで精神をやられる。そんな時が過ぎていく中で、麦は淡々と丈を伸ばしていた。太陽の光と土の滋養が合わさり、麦の成長を育んでいた。こんな風に、強さや生命力を感じる時に、私は植物に憧れる。麦みたいに音も立てずにしなやかに、すくすくと生きたいと思う。
4月30日。麦穂を実らせて太陽の光に照らされ輝いていた。みずみずしい緑色の小麦畑が目の前に広がっていた。この開放感あふれる絵はミュージック・ビデオの撮影に使えそうだ。
侵攻の影響で日本国内の小麦の輸入価格は上昇中だが、こんな小さな作付け面積では自家用に少し色をつけたようなもので、小麦価格の上昇の助けには足下にも及ばないだろう。でも、天候などの影響は免れられないにせよ、なんとか自分の手で作ることができる。麦穂を眺めながら、この経験を軸にしていけばこの先なんとかなるんじゃないかという、ふわっとした安心感の解像度が少しだけ上がったかも、と思えた。