「海外で暮らす」の意味(その3) | エディンバラで暮らす旅
■ 前回までのあらすじ
20世紀での経験を基に「いつか海外に拠点を移して暮らしたい」と考えるようになっていたパチ。
しかし日本での生活が充実してくるにつれ、その思いが今も本物なのか、それとも単なる口先だけの言葉なのか自分自身でもわからなくなっていった。
本当に今もその希望を抱いているのか。実際にしばらく海外暮らしをして自分の心に聞いてみよう——エディンバラでの暮らしもおよそ2カ月過ぎたところで、パチは改めて自分の心境に向き合っていた。
と、前回までをまとめて見たけれど、実際には「道具としての金、方法としての仕事」に対する変化を中心に書いていました。
本当はもう一つ、心情的な部分を掘り下げて書くべきだという気持ちがあって。実際しばらく前にふと気づいた感じがあったんだけど、でもはて、これはどれくらい本当にあてはまっているのだろう?
もしかしたら、自分の気持ちの中でそれほど大きくないことのような気もするし、これこそが一番大きなことのような気もするし…。
なんだか今も確証が持てていないというのが本当のところだ。でも、少なくともある程度の真実はここにあるし、きっと、おれみたいなやつの参考にもなるんじゃないかって気もする。
しばらく書きあぐねていたけれど、心の趣くままに書いてみよう。
■A面1 チャレンジや達成感、発見に満ち溢れた生活と成長実感
おれが海外暮らしに憧れていたのはこういう理由もあった。
ほぼ毎日、小さなチャレンジや達成感、発見に満ち溢れた生活が送ることができ、成長を実感できる
少し細かく説明すると、「達成感や発見、成長」とは、海外で暮らしていると日々いろんな場面で初めての経験や物事の新しい捉え方に触れまくる。それこそ、スーパーでちょっとした日用品を買い物するのだって、毎回のようにそれまで気づいていなかった日本との違いに気づく経験がある。
そして一度違いに気づき理解すると、自分の行動をそれに合わせて少し変更するようになる。そこに成長を感じるのだ。
…わかりやすい例えがうまく頭に浮かばないけど、こんな感じ:
海外の多くのスーパーでは、レジ係の人がレジ打ちを終えた商品を、そのそばからどんどん自分で持参したバッグ(あるいはその場で購入したバッグ)に詰めていく必要がある。だから、レジ用のベルトコンベアーに買い物を並べるときは、先に重いものや大きいものを置いた方がいい。そうじゃないと、最後にバッグの一番上にそれを載せることになるから。あるいは、バッグへの詰め直しをしなきゃならなくなるから(人びとが列を成している混んだレジで平然とそれをやるには、おれは繊細すぎるのだ)。
そういう小さな気づきと工夫みたいなものを、日々感じることができるのが海外暮らしだ。こんな例に現れるように、毎日のなんでもない日常的な行動の中で、「これに気づいて対応したおれナイス」と自分の有能さを感じ、自己効力感を高めていきやすいのだ。
このこと自体は良いことだと思う。だが、この良いことを「A面」とすれば、おれの場合にはダークサイドの「B面」も間違いなく存在していた(ことに最近気づいた)。
■B面1 「何者でもない自分」であることに意識を向けず過ごせる
たいして努力せずとも、「何者でもない自分」であることに意識を向けずに毎日を過ごしていける
日本にいると、日常的に達成感や自分の成長を感じることは難しい。コツコツと地道な努力を重ねていても、成長や進化を感じられるのは毎日あることじゃないし、長く続けていればいるほど「成長の踊り場」も大きく長くなっていく。要するに、成長を自覚できる機会がどんどん減っていくのだ。
そうなると、周囲いる「何者かである人」や成長に貪欲な人びとが、自分と違っていかに優秀かに目が向きがちになる…。
日本で生活していると、A面の「自己効力感」ではなく、劣等感や自分を卑下する気持ちを感じやすくなっていくのだ。
特にフリーター時代、おれはこれがとっても嫌だった。頭では「成長を感じられないだけで自分が悪くなっていっているわけではない」とわかっていても、なぜか「劣化していく自分」みたい気持ちになることが少なくなかった。
海外にいると、「劣化していく自分」に向き合わなくて済んだんだよね。
■A面2 自分らしく。自分が好む価値観や行動を貫ける
もう1つ、似た部分もあるかな。おれが海外暮らしに憧れていたのはこういう理由もあった。
自分らしさを失うことなく、自分が好む価値観や行動を貫くことができる
そこは海外だ。周りに日本の常識を持ち込む人間もいなければ、人の言動に注意を払う人もごく僅かだ。自意識過剰のおれですら、誰もおれに興味を持っていないことを確信できる。
ただ、自分らしくあればいいのだ。自分らしさに優劣などないし、価値観や行動だって、自分の内面から出てくるものをただそのまま受け入れればいい。誰かに合わせて生きる必要も、行動する必要もそこにはないのだ。フリーダム万歳!!
■B面2 「仕方ないよ」に飲み込まれていく自分を気づかぬフリできる
日本にいると、自意識過剰なおれはやたらと周囲が気になることが多い。「何者かでありたい」気持ちがねじれにねじれて、何者かであるかのように振る舞いたくなるのだ。
それが本当に自分の価値観から出てくるものならいいけど、ときにそれは単なる自己顕示欲に過ぎなかったりする。つまりは「見て見て〜!」ってやってるだけだ。子どもか! なにをイキってやがる!
それだけならまあいいとしよう。でもそこから先に進むと、実際には周囲の当たり前に飲み込まれて、「お約束的な言動」を取ったり、周囲の期待に合わせた常識的と思われるであろうことを言ったりしてしまうのだ。たいして心にもないくせに!
それは以前、「くだらないものごと」や「つまらない大人」として否定していたものではなかったのか。自分がその道のりにいることを気づかないフリをしたり、「仕方ないよだってそういうものだから」と、意味のわからない理由で自分をごまかしているだけではないのか。
いわゆる「まともな職」について「真っ当な会社員」をやっているうちに、どんどん「仕方ない」が濃くなって、「そういうもの」が幅を利かせていく。…自分らしさ? 自分の価値観や行動? えーっと、まだどこかに残っていたっけ?
これは実際にいくらかそうなってしまったという懺悔的な気持ちと、これからもっとそうなってしまうのではないかという恐怖感とが、ごちゃ混ぜになった感じ。
「何者でもない自分」を認めるだけならまだしも、「自分自身であろうとする自分」すらも失っていく——。日本で暮らしながらそれに正面から向き合って抵抗するのは、数年前までの自分には難しすぎた。
■ これから
すごく長くなったけど、この2つのA面とB面がおれにはあったってこと。
A: チャレンジや達成感、発見に満ち溢れた生活と成長実感
B: 「何者でもない自分」であることに意識を向けず過ごせる
A: 自分らしく。自分が好む価値観や行動を貫け
B: 「仕方ないよ」に飲み込まれていく自分を気づかぬフリできる
A面は前から明確に理解していたけど、B面は最近になってようやく気づいた気がしている。
いや、おそらくは前から知っていたけど、それを認めることが怖かったんじゃないだろうか。でも、今は大丈夫。怖がらずにちゃんと向き合える。
海外で暮らしたいって気持ちは今もあるけど、「なにがなんでも」って追いかける気持ちはなくなっていた。
それを前提に、もっとしなやかに、あらゆる可能性を楽しもう。
そしておれは、もっともっと自分のために「おれが思ういい奴」になるって決めたんだ。そしてそれには、おれがどこにいるかはあんまり関係なさそう。