ヴォルフガンク・ゲデオン『コロナ、衝突、内戦: グローバルな独裁への道?』➀
Gedeon, Wolfgang, CORONA, CRASH, und Bürgerkrieg: Auf dem Weg in eine globale Diktatur, WMG-Verlag, 2020
政治的背景をもったパンデミック
[S.7] コロナとは何だろうか。それは大いなる詐欺なのか。それとも死への危険なのか。あるいは何らかのその中間にあるものなのか。しかし、その中間とはどこにあるのか。
しかし確かな事実はたくさんある。それはまずは、国家と政治が一つの虚構上の遊戯に興じているということだ。実施される検査の数によって恣意的に操作しうる数値によって、国家や政治は、不安とパニックを広めようとしている。何百万もの健康な人々が国家と政治によって隔離されている、そう、ひょっとしたらそれらの人々が病気かもしれないと理由によって。しかも国家や政治はマスク着用の義務を課してくる。それによっていくつかの感染症がもしかしたら予防できるかもしれないが、同時に何百万人もの健康な人がかえって病気になるかもしれないのに。
大規模な監視とグロテスクなまでの過剰な規制——それをますます多くの人々は、健康独裁と感じ取っている。メルケル&Co.は、人間の基本的権利への最悪の干渉に至るまで、「コロナ」によってすべてのことが正当化されうると信じているのだ。かつては基本法が存在していたが、いま妥当しているのは連邦感染保護法である。これからさらにどうなっていくのだろう。私たちはこのコロナ・テロになおも忍耐強く耐え忍ばなければならないのか、あるいは抵抗することができるのだろうか。後者を実践する人々は、コロナを過小評価しようとしているのではなく、自由と民主主義を守ろうとしているのである。
コロナは森や草原などの自然に存在する病原菌ではない。CoV2ウイルスが、アメリカ合衆国と中国の施設のキメラ的な研究から生まれたことについては、多くの人々が語っている[S. 8]。そのウイルスは、私たちに既知のインフルエンザウイルスよりも感染力が強い。そして、その病気の経過には医学的にまだ十分に評価することのできない特徴がある。しかしながら、これらすべての事実は、合理的でもなくましてやまったく科学的ですらない、いま公的になされているコロナ=政治を正当化するものではない。そこでは、ほとんど信じられないほどの政治的な強制措置を貫徹するために、人間の健康への不安が濫用されているのである。
ウォールストリートやUNOやWHOの政治的な操り人形師や、さらにブリュッセルやベルリンにおけるその出先機関は、国民国家に対する巨大の国家帝国を企んでいるのではないのだろうか。彼らは人間というものを、彼らのいう新たな「トランス・ヒューマニズム」の意味において、あるデジタル化されたアイデンティティをもった生物学的なデータの担い手にしようとしているのではないだろうか。コロナ=プロジェクトとは、彼らが追い求めている世界支配の、最後の大きな一歩ではないのだろうか。
これらのことはすべて、おかしな陰謀理論に過ぎないのか、それとも、人間であり続けることを欲しているすべての人々の義務を邪魔するための、実際上の陰謀なのだろうか。
本書はこのような問いに答えるのに助けになることだろう。私が本書を捧げたいのは、この書物によって何を始めること、そしてさらにそれを伝播して、真理をめぐる闘争のための武器にしようとする意志のある人々に対してである。本書を書いたことで何かお役に立つことができるであろう、そういった人々に、私はこの場を借りて感謝したい。
著者について
私は医者であり政治家である。三四年間にわたって私は医師として、しかもそのうち三〇年間は自分の診療所において一般医学の専門医として働いてきた。とりわけ何千人ものウイルス感染者を私は処置してきて、ドロステン、ヴィーラ―&Co.[※註 ドイツにおいてメルケル政権の政策に大きな影響を及ぼしている二人のウイルス学者]とは違って、[S.9]診療所や日々の生活のうちでウイルスにどのように対処をするべきかについて、熟知しているものである。
政治家としては、本質的に私はドイツのための選択肢において自分のキャリアを形作ってきたが、いまはその党を選択することができないと考えている——少なくとも、モイテンやヴァイデルや、何人かの無能な政治家を党から追放されないかぎりは。
いま私はバーデン=ヴュルテンベルクの無所属の州議会議員である。政治的には私はブリュッセルやベルリンに対する急進的な反対派であり、メインストリームの政治が行っている放漫経営に戦いを挑むことを辞さないものである。それによって私に対する、悪質な誹謗中傷や名誉棄損のキャンペーンが生まれることにもなったが、政治における真理は、それによって救われるのではない、むしろその逆である。
本書の構成について
本書は四つの章からなっている。
第一章において、私はいかにコロナが政治的に道具化されたかについて分析する。疑似合理主義的な誇大宣伝によって全体主義的な下部構造が構築され、健康独裁によって、政治的な独裁が準備されたのである。
第二章においては、コロナ危機の背景となっている政治的な世界状況、とりわけ西洋の超国家主義と中国の帝国的ナショナリズムの対立が取り扱われる。そこで重要となる問いは、ウォールストリート=UNO=EUのグローバルなシステムが貫徹されるか、それとも中華帝国からやってきた共産主義的=全体主義的な国家信仰の悪魔が勝利するのか——あるいはそのどちらをも実現させないためのチャンスが私たちにあるのか、というものである。
[S. 10] 第三章において私は、政治における真理の次元を問題とする。真理とは多かれ少なかれ政治的な対立においては邪魔な添え物に過ぎないのか、あるいは真理は持続可能性のある政治的権力をめぐる闘争において決定的な武器であるのか。いずれにしても、コロナをめぐる真理をめぐる闘争は、世界規模で決定的な戦いを引き起こしている。そこで勝利する者が、今後しばらくグローバルな政治で決定権をにぎるであろう。
第四章と最終章において問題となるのは、ドイツにおける戦略上の問い、つまりは左翼党とドイツのための選択肢の役割について、である。とりわけ重要なのは、ドイツにおける内戦を防ぐことはなおも可能なのか、もしできないとすれば、その内戦はどのようなものとなり、そこでひとはどういった立場をとるべきなのか、という問いである。
【第一章 いくつかの医学的側面へ続く】