私はなぜ、文章を書くのか
「はい、コレ」
ある朝、隣に座る上司に本を渡された。それが田中泰延さんの「読みたいことを、書けばいい。」だった。年間1,000冊の本を読むというその上司は、私が尊敬する上司だ。ロジカルシンキングが皆無な私の悩みに、いつも超ロジカルで、的確な答えをくれる。
ちなみに「本当の自分がわからなくなるときがある」と、私が漏らした悩みに、貸してくれた本はこれだった。
大人は、さまざまな役割を演じ分けながら生きている。夫/妻という役割、父親/母親という役割、会社員という役割、親と同居していれば子供という役割、(中略)私たちは、多様な社会的役割を演じながら、かろうじで人生の時間を前に進めていく。(中略)科学哲学者が専門の村上陽一先生は、人間をタマネギに例えている。タマネギは、どこからが皮でどこからがタマネギだ本体というようなことはない。皮の総体がタマネギだ。人間もまた、同じようなものではないか。本当の自分なんてない。私たちは、社会における様々な役割を演じ、その演じている役割の総体が自己を形成している。
本を読み終えたとき、上司がなぜこの本を私に貸してくれたのかわかった。モヤモヤした世界がクリアになったとき、「言語化」の大切さを知る。
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本題。
なんだか私は最近、クリアではない世界をどんより過ごしていた。文章を書く仕事というのは、いわゆる“誰かを新しい世界に連れて行くこと”だと思っていて、それはつまり、アイデアを必要とする。
文章を書くことは好きだと思っていたけれど、自分はアイデアを出すことが心底苦手だと気付いたとき、文書を書くことも、本当は苦手なのかもしれないな、なんて思ったりもした。イベントの企画やらコンテンツの企画やら、なんだか冴えないアイデアしか浮かばないことに、悶々とする日々だ。
私は、話をすることが苦手だ。母も無口だったので、小さい頃から家でもあまりぺらぺらと話をした記憶もない。だから手紙を書いたり文章にしたりして、自分の気持ちを発信できたとき「あぁ、やっと100%を伝えられた」と、安堵する。
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この本では、そうして文章を大切にする私に「なぜ書くのか」を、改めて考えさせてくれた一冊だ。本の中で田中さんは、「貨幣と言語は同じもの」と言っている。
言葉で表すことで、存在するものに具体的な価値を与え、だれとでも交換できる。貨幣における為替のように、他系統の使用単位とも「翻訳」ができる。
「あなたの書いた文章を読んで、会ってみようと思いました」という人から連絡があり、京都駅に立ったとき。「あなたの書くものがおもしろかったので、酒をおごる」と招かれて、気づいたら九州にいたとき。(中略)そんなとき、わたしは、「文字がここへ連れて来た」と思う。
「書くことは世界を狭くすることだ。しかし、その小さななにかが、あくまで結果として、あなたの世界を広くしてくれる」
文章は人と人とを繋ぎ、人生の点と点を線にしてくれるものだと、心底感じる。「人の人生に価値を与えたい」と思いながらも書いていた文章は、本当は自分の人生に価値を与えるために、積み重ねてきたものなのだと、今は思う。
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文章は、一対一だ。本や記事を読んだりするとき、じっくり読むときは誰もがみんな、ひとりになる。だから私は文章で伝えることが好きだ。
そして、たとえば手紙はその場で読むものではなく、サヨナラをした後に、じっくり読む。目の前にいない人に想いを馳せる時間は、なんだか素敵だと思う。
その人の純粋なところ、美しいところ、正しいところ、優しいところ、そして寂しいところというのは、その人と会って向かい合っているときではなく、離れたあと、ひとりのときにふと思い起こされ、伝わり感じるものである。
我々が人間への尊敬や愛情や共感を心に刻むのは、実に相互の孤独の中においてである。書くこと、そして読むことは、その相互の孤独を知り、世界への尊敬や愛情や共感をただ一回の人生で自分のものにすることなのだ。
自分のために書いたものが、誰かの目に触れてその人とつながる。孤独な人生の中で、誰かとめぐりあうこと以上の奇跡なんてない。
なぜ、書くのか。やっぱりそれは、誰かと心から繋がりたいから書くのだ。文章を介しての出会いは、なんだか“ちゃんと”出会えた気がする。
人生は、寂しい。そして、人生の寂しさとは、誰かが何かをしている寂しさだ。友がみな我より偉く見ゆる日の寂しさ。世界が自分を置き去りにしていると感じる寂しさ。それならば、自分が世界を置き去りにすればいい。まだ誰も知らない景色を、知らない言葉を、見つければ良いのだ。その瞬間は、世界の寂しさに勝てる。
結局のところ私は。まだ誰も知らない世界を、知らない言葉を見つけるために、世界の寂しさに勝つために、そして「自分のため」に、文章を書いている。