「古文はムダだとか言うやつは、古文が金融や不動産に変わったところで多分、金融や不動産の勉強もしない」への反論
久しぶりにnoteで記事を書く。Xの連続発信の簡易まとめ。
noteでも古典教育をめぐる発信が増えたが、現状では圧倒的に古典教育を擁護する立場の発信が多い。ただ、定期的にバズる割には表層的かつ錯綜した議論になりがちな印象のこのテーマ、関心を持っている方々には多角的にこの問題を考えていただきたくこの記事をまとめた。
粗削りな部分もあるだろうし、読者にとっては不快に感じる書き方の部分もあるかもしれないことをあらかじめお詫びしておく。
直接のきっかけは下記のツイート。
私は、やや特殊な経緯ではあるが古典不要論寄りの立ち位置である。
詳細は機を見て述べるが、ここでは「平安期特化の古文と、古代中国の漢文しか扱わない古典教育の守備範囲の狭さ」から現行の古典教育に反対、とだけ述べるにとどめる。
ただ元記事の吉野敬介氏個人は教育関係者として尊敬している1人。氏の経歴(元暴走族から古典の塾講師へ)を知って古典不要論に二の足を踏むときもあった。
参考:『古文の勉強法をはじめからていねいに』 (東進ブックス 大学受験 TOSHIN COMICS) https://amzn.asia/d/6rzO9fG
なのだが、今回の記事にある以下の一文がとても引っかかった。
こういう決めつけは本当にやめてほしい。
氏に対し非礼かもしれないが、率直にそう思った。
確かに現状、古典不要論にも安易な発信は多い。
が、辛抱して学び続け、回顧録的に「やっぱり不要」と唱える人間も一定数いるのを私は知っている。過去に明星大学で行われた、通称”こてほんシンポ”に古典不要論者として登壇した不要論者も、圧倒的にその立ち位置だった(発言の背景で語られる論者の経歴を調べればわかる)。
古典は本当に必要なのか(明星大学日本文化学科シンポジウム20190114) https://www.youtube.com/live/_P6Yx5rp9IU?si=sFqgniPva98hpIF1
当時の物議のアーカイブはこちら参照。
冒頭の氏の発信も、安易な現役高校生を想定したものなら理解はできる。
古典に限らず、目先の学業を小バカにする人間が大学入試に勝ち残ることは難しいだろうし、仮に実現したとしてもいびつな成功体験となる可能性が高い。本稿にて古典不要論寄りの私でも、現役の受験生相手ならば、吉野氏と同じようなことを言うだろう。
しかし、古典不要論者にも様々な立場がある。
苦渋の決断だったり、明確な目標設定ゆえの結論の場合も少なくない。
詳細は語らないが、私もかつてはその1人だった。
(なお私自身は大学受験のために古文漢文もある程度勉強している。吉野氏のような専門家には遠く及ばないが、その水準におよばないからという理由で不勉強認定されるのは心外であるし、さすがに専門家のエゴだと反論したくなる)
そして国語教科書のラインナップを見ればわかるが、高校の古典教科書は源氏物語のような平安期の作品が多く、江戸期の作品は意外に少ない。また、古文漢文の歴史性を重視する立場を踏まえるなら文学教材だけでなく古文書なども一定割合取り上げなくてはバランスが悪い。
氏も「前提として古文漢文は日本の伝統」と述べるように、高校教科書に登場する古文漢文教材は間違いなく日本の歴史の一部である。
だが、結局のところ一部でしかない。
過去に、東北の大地震・津波の記録、関東大震災時の記録を根拠に歴史的仮名遣いによる史料が読めなくなる的な発信を見かけた(関心ある方は各自調べていただきたい)が、その時の主張は現行の古典教科書にはまるで反映されていないし、その点を批判する有識者も控えめに言って多くはない。
もっといえば、本来の「古典」には日本や中国のものだけでなく、西洋や東南アジアなどのものも指す。プラトンもユークリッドもアダム・スミスも、彼らの著書はそれぞれの分野で「古典」と扱われるが、日本の「古典」でその手の文章が登場することはない。
「古典」から上記人物の著書が思い浮かばず、紫式部や松尾芭蕉ら明治期以前の著作家ばかり思い浮かべるのなら、それは「国語」という枠にとらわれ過ぎである。国語として扱える古典教材の制約を鑑みるにしても、上記の古典を「古典」として認知させないのは古典教育として失敗だと私は考える。
異論反論を承知の上でいえば、私個人は日本国内(あるいは古代中国)の「古典」しか扱わない古典に魅力を感じない。「井の中の蛙大海を知らず」という故事成語を扱いながら、大海に目を向ける蛙たちを、古典愛好家の方々は全力でしばりつけているように私には感じてしまう。
江戸期の古典作品、歴史的公文書(原著は漢文体)すら取り上げる機運すらない、そんな今の古典教育を必修で留め置く意義は何だろうか?
平安期特化の日本文学だけがあたかも「古典」のすべてである、そんな偏屈な「伝統」で片づけないでほしくない。
ちなみに、本来の私はあらゆる学問知を求める立ち位置。
なので、本来なら教養論だったりリベラルアーツ的な観点から古典教育を擁護すべき立ち位置であること重々承知である。
なのだが、私の観測範囲では、控えめに言って日本の古典(+漢文)にしか明るくない専門家から散々不勉強認定されてきた。
国語授業や入試で古典が苦手だった腹いせ?
実用ばかり求めるのは心が貧しい?
役立たないものにも価値がある?
何を根拠に言っているのだろうか??
古典愛好家側でその根拠めいたものを具体的に、詳細に述べた論考を私はまだ見たことがないし、上記程度の主張ならば徹底的に論破することもできる(長くなるので、閲覧者の要望があれば別途加筆したい)。
そして紹介済みのこてほんシンポでは、古典必要論側は不要論側の「実用」「経済合理性」「偏屈な教養観」という不要論側の素朴な立論に真正面から反論することもできず、シンポジウム以後もその切り口に正対して古典の必要性を説く論考は少ない。
それどころか、こてほんシンポや類似の討論すら認知せず、調べもせずに無邪気に古典不要論に反論を試みようとする。私見を述べること自体は自由だが、真に古典不要論に反論する気があるなら、多少なりとも下調べはしていただかないと不毛な議論に陥る。
先行の議論・研究に当たるのは古典に限らず後発で学術的な議題に言及するための基本であると思うのだが、彼らは古典から何を学んできたのだろうか?
歴史的仮名遣いや返り点学習が何のためにあるか、多角的に自省したほうがいいと思う(古典不要論寄りの私でもこれくらいは知っている)。
賛同者でマウントをとりたいだけなら話は別。
個人や組織への人格攻撃に走らなければ、誰がどう語ろうとも自由。
なのだが、真に古典教育への支持を増やそうと思っているのなら、素朴に発信するにせよ下調べはすべき。
嫌味を言うようだが、もののあはれ、わび・さびが異なる立場への想像力に結びついていないようで、暗澹たる気持ちになる。
古典教育の議論は日本のアイデンティティにも踏み込む。
何より、議題となった吉野敬介氏はじめ、古典教育で生計を立てている方々にとっては死活問題になる事柄。
それぞれの立ち位置で好き勝手議論するのは各論者の自由であるが、国内のものも含めて多種多様な学問知を敬愛するからこそ、古典教育を生活の糧とする方々にとって、またその受け手にとって意味ある議論でありたいと思う。だからこそ、表層的な議論に終始しがちな本テーマは深掘りした議論が必要だと常々考える。
本稿がその一助になれば幸いである。
※参考:加筆前の発信はこちら。
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