古典不要論をめぐるあるYoutube動画について、愛好家の反応のなさが気になる件 #国語教育 #こてほん
※記事公開後にタイトルと内容を微修正しています。(6/2追記)
最近、以下の動画が投稿された。未読の方は一読されたし。
コラボ広告とのつなぎ、先行文献の裏打ちの両面で良質の動画である。
出典:「なぜ古典教育の意義を誰もまともに答えられないのか【古典廃止論】」(社會部部長20240524)
前置き:古典教育議論に関する先行動画
古典不要論をめぐっては定期的にX(旧Twitter)でバズることがあるが、これまでYoutube動画内で古典教育の在り方を中心的テーマとして取り上げるものは少なかった。また、それらの多くは古典不要論に反発する立場のもの、古典の魅力を説くものが多数で、古典不要論の立場を踏まえたものは少数であったと認識している。
認知度の高いものだと、この2つの動画くらいだろう。
本動画は10万再生、ただし界隈の反応は…
冒頭の動画は公開間もなく10万再生を越え、賛成反対を含め多くのコメントがなされている。アニメーションや広告内容との接続も秀逸であり、動画投稿者として純粋に参考したい内容であった。
なのだが現状、X、Facebook、Thread、BlueskyなどのSNSで検索した限り、投稿者のフォロワーまたは古典不要論寄りの発信者による拡散が目立つ。逆に、従来より古典教育について精力的に発信していた垢のほとんどはこの動画に無反応な様子(発見できたのはX上の数件だけ)。実際、私の観測範囲ではあるが、
・古典 ○○(教育、国語、必要、不要、廃止)
・古文 ○○(同上+漢文)
などのキーワードで物申す発信は5月下旬よりかなり減少している。(X上で解析するツールがあるようだが、現状で使いこなせていない)
本動画はタイトルに反して・・・
今年1月~2月では大学入試や芸能人の古典を巡る発言を契機に盛大にバズっていた(炎上していた)ことを記憶している方は多いだろう。しかし今回についてはYoutubeとその他のSNSで温度差が激しいように感じる。
実は、冒頭の社會部部長氏の動画の結論は、タイトルに反して「古典を学校教育から廃止せよ」ではない。最後まで視聴すればわかるが、古典教育に関する動画内の主張は「古典教育は要らない」ではなく、
古典教育は必要。ただし必要論者が言う面白さや教養を根拠にするのではなく、○○を根拠にしないと不要論者の反論にならない。
という趣旨の内容である(○○については元動画を参照いただきたい)。
つまりタイトルとは裏腹に、動画全体では必要論者寄りの動画になっている。愛好家目線でも部分的には同意しかねる内容もあるかもしれないが、古典推進派にとっては本動画はむしろ助け舟というべき動画になっていると私は受け止めている。
この背景については、
「なぜ古典教育の意義を誰もまともに答えられないのか【古典廃止論】」
という、動画タイトルが古典推進側にとって批判的なものゆえに、中身も見ずに推進者側がスルーしているのではないか。
・・・という邪推をしているが、そのこと自体に深入りすることはここでは避けたい。(個人的にはむしろ邪推であってほしいと思っている)
単純に気づいていない、気づいていても腰を据えて動画視聴ができていないということであれば、批判的なタイトルに目をつむって古典議論を整理すべく視聴いただきたい、というのが私の本音である。
(なお、私は動画投稿者とは何の接点もない)
なお、かくいう私は古典不要論寄りの立場だが、本動画の内容は9割がた同意している(同意しない1割については後述)。
何より、古典不要論側の論拠を真正面からくみ取り、従来の必要論側の噛み合わなさを論点整理し、古典推進を提言するのは議論の在り方として好感が持てる。これくらいの知見を以て古典教育を推す教育関係者が一定数いるなら、古典教育維持を推すこと自体に反対する必要がなくなる、とまでは申し上げておきたい(個別の議論はあれど)。
続編「古典教育はやはり不要なのか」へのある疑問
ちなみに本動画については先日、続編(一部コメへの返信)も出ていた。
出典:古典教育はやはり不要なのか【古典廃止論2】(社會部部長20240601)
こちらでは、前作の一部コメに返信する過程で
・高校(義務教育でない)において古典教育を是とする理由
・日本由来の古典ではない「漢文」も日本の古典とみなす根拠
・古典教育の意義よりも方法について議論すべき
・数学の方が不要(?)
などが述べられている。
私個人としても、これらの主張にも概ね同意する。
(数学の件は別途議論が必要だが、ここでは割愛)
ただし、冒頭動画の”同意できない1割”に絡めて、
○○(動画内で古典推進する意義)の観点から古典教育を見直すべきと主張するが、それは誰がどのように行うのか?
という疑問に触れないわけにはいかない。
古典不要論どうのとは別に、現行の古典教育が極端な原文主義(歴史的仮名遣いの古文 or レ点のない漢文から文意を読み取ること)に走っていたこと、これはかねてより国語教育界隈でも批判的な提言が投げ続けられていたことのようだ。ネット上で可視化されたのはここ数年かもしれないが、それ以前から水面下でくすぶっていた議論であることを忘れてはならない。
実際、学校教育現場でもこの課題点を踏まえた古典教育実践自体は多数ある(Google Scholar ”古典 教育”などで調べていただきたい)が、現状として原文主義的な教育観に基づく入試制度は概ね維持されてきた。直近の共通テスト過去問を見ても、文理共通に古典を2次試験に課し続ける東京大学でも、原文主義的な出題傾向自体は維持されている。
すなわち、古典教育方法論の議論が国語入試に与えた影響度は”限定的”とみなすのが自然であろう。
氏は、この問題についてどのように考えるのだろうか?
あるいは、氏の動画を受けて古典教育の関係者はどのように反論するのであろうか?
個人的には後者の発信に興味があるが、具体的にお目にかかる日は来るだろうか?
古典教育の方法論議論、誰が提言するのか?
すでに述べたように、現状では古典不要論をめぐる冒頭動画への古典推進派の反応は相当に鈍い。過去の古典教育議論の動画(紹介済みの2つを含む)では現状に物申す教育関係者の発信がいくつかみられたが、それでさえ一時的な拡散に留まり、具体的に教育内容やカリキュラム、入試の設計まで踏み込んだ言及はごく少数だった。
個人的には、○○(動画内で古典推進する意義)を是として古典教育を見直す場合、
原文主義的なスキルを維持するならば作品の限定が必要
現代語訳済みの文献読解や論述も古典教育の読解力とみなす
日本の古典文学だけでなくヨーロッパ、アジアの「古典」も盛り込む(もちろん原文でなく翻訳済みのものでよい)
法律の条文、実用書、諸学問の古典教材も一定量取り上げる
対応する形で大学入試、国語科の教員養成システムも見直す
辺りを実践できなければ古典教育の改善は困難だと私は考える。
私個人はこれをやるだけで最低20年はかかると見ているが、この記事をご覧になった方々はどのように感じておられるだろうか?
冒頭の動画にもあるように、古典不要論に相当する議論は少なくとも戦後間もない頃から提示されていた。何十年も惰性のように放置されてきた問題を、動画投稿までなされた今から早急に改革できるとは私には思えない(現に有効な反論が思いつかないから界隈は沈黙しているようにも見える)。
そして、これらの改善案(あるいは別の代替案)が提示・共有されない限り、現行のような原文主義的な古典教育は維持される可能性が高い。そしてそれが必修ゆえに不可避であるならば、古典教育自体を必修からは外すべきだと私は考える。
なお、この件についてネットでブログやまとまった発信を調べた限り、個人的に良質な提言が見られたのは以下の動画のみ。長い動画にはなるが、下記動画のゲスト(八神夕歌氏)の提言によく耳を傾けていただきたい。
そして愛好家の立場から、どのように古典教育を改善するのかを提起していただきたい。
補足:投稿者は古典廃止自体を望まない
以下は補足である。
念押ししておくが、私個人は学校教育における「古典教育」の中身を”まったく不要(完全廃止)”という立ち位置には立たない。国内外の学術知を網羅的に学び、可能な限り還元するという立ち位置に立ち、
・内容面の見直しが急務だが、当事者にその意識が弱い
・○○(動画内で古典推進する意義)ではなく趣味教養に走る言説が多い
・古典推進派間で異論反論を許容できない排他的な風土が見られる
・焚書でもされない限り原著や翻訳本へのアクセス自体は難しくない
・拡充が求められる他領域に比べ一般的な優先度も高くない
以上を理由に、私は古典不要論寄りの提言をしているに過ぎない。
一部の愛好家は古典不要論に対して学生時代の古典に対する怨恨とか、再生数稼ぎを目的とした工作のように嫌味を言ってくるが、私個人の関心はそこにはない。
私のX上の発信(@ozeanschloss)を遡れば分かるが、私は古文漢文教育のありかたについては辛辣な発信をするが、古典を題材にした創作物やその感想に水を差すような物言いは極力しないようにしている。内容によってはポジティブな評価を加えてリプすることさえある。
古典愛好家を自称している方々で、古典創作物についてその手のフィードバックを行っている方はどれだけいるだろうか?
目的意識が迷走している現状で闇雲に古典教育を推せば推すほど、目的も見えず、平均的な学習効果が低下し、一部の愛好家の啓蒙と引き換えに古典嫌いを生み、場合によっては他領域に対し排他的なマインドさえ醸成してしまう。そのような古典教育を必須とすることにはマイナス面の方が大きいと考えるが、古典愛好家はこの辺をどう考えているのだろうか?
現行の古典教育の早急な見直しが難しいのであれば、共有知としての古典教育は義務教育段階のみ、あるいは新課程のように必修1.6単位に留め、それ以降は進路や興味関心に合わせる方がマイナスが少ないだろう。
実際、世界史や数学Ⅱ・Ⅲ、物理などは主要な要素を選択科目に委ねることに甘んじつつも、その存在意義を届くべき層には伝えている。三角関数のように時に不要論を招く題材もあるが、多くの場合専門家から然るべき反論(煙に巻いた抽象論ではなく実利的なもの)がなされ、長らくくすぶることにはならない(私の観測範囲だが)。
必修としての古典の範囲を限定してあらぬ反感を多くの生徒に抱かせる事態を回避し、対象生徒を絞った状態で古典教育の現状を見直す。中長期的に古典教育を維持させたいのであれば、そのような教育課程に甘んじることも必要なのではないか。
古典愛好家の中には、高校教育の古典学習の縮減について文化破壊やら亡国のように煽り立てる者もいる。現状の古典教育への危機感の表れとしては理解もできるが、問題解決のアプローチとしては悪手であるし、仮にこの程度で多くの解説本・マンガが流通している現状が大きく縮減される、もしそのように考えるならば、それはあまりに悲観的すぎる。
古典愛好家を自称し、その立ち位置から警笛を投げかけるにしては古典教材の魅力を信用していない、そう言われても仕方ないだろう。
※参考:
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