母の最期に間に合わなかったけれど、大丈夫だと思えた理由
私の母は2017年8月17日に亡くなった。早いもので4年が経つ。当時、母の最期のことを書いたエッセイは、エージェントのバックナンバーからもう読めなくなっているので、こちらに再掲載しておく。
姉が終末期医療の医師、つまり看取りのプロなので、母が亡くなる少し前から、最期の瞬間のことをわたしたち(父、長女、三女、私)にも説明してくれていた。
「これまでの私の経験上、最期の瞬間というのはそれぞれ自分で決めているように思うのよ。みんなが駆けつけるのを待って逝きたい方もいれば、あえて誰もいないタイミングを見計らったように逝きたいという方もいる。最期の瞬間というのは見取りの経験を積んだ自分でも、なかなか捕まえることは難しいのは、そういうわけ。だから、最期の瞬間に立ち会えなかったとしても、大丈夫。それはきっと、お母さんが決めたタイミングなんよ」
結果的に、私は母の最期に立ち会えなかった。母に会いに行こうと新幹線に乗る直前に、その一報を受けた。
だけど、姉の言っていたとおりだともわかった。母はきっと自分で決めて旅立ったのだろう。娘たちの仕事のスケジュール帳をチェックして、よし、ここならいいぞ、と考え抜いたようなタイミングだったからだ。
母の看取りの日々は、私にとってかけがえのない時間となった。その経験を下敷にした小説『有村家のその日まで』も書いて世にも出せた。
『有村家のその日まで』のご感想は、私のほかの作品よりも熱いものが多い。ご自身の経験と照らし合わせた読んでくれていた感想もたくさんいただいた。
母の最期の時を書いたエッセイ『母は、シリウスへ里帰り』も、またたくさんの人に読んでもらえたら嬉しいし、大事な人をなくした痛みを抱えている人の少しばかりの癒しにもなったらこのうえない。
【トップ画像は、若かりし頃の父と母。海水浴に来た時のもののよう】
以下、2017年8月に書いたものを再掲載
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『 母は、シリウス星へ里帰り』
パイナップルの日に、母はこの世を去った。
八月十七日。母がパイナップルを食べていた姿を思い出すことはできないが、なんとなく、母とパイナップルは似ていると思う。
突拍子もなく陽気な感じや、甘みも酸味も濃いところや、食べすぎると舌がヒリヒリしてきてちょっと騙されたような気分にさせるところなんか、そうだ、あの人みたい。そんなことをイメージし、実母の命日を心に刻んだ。
母の病気が見つかったのは、昨年の晩秋だった。
しかし病状を母から聞かされていたのは父と長女だけで、わたしと次女と三女が知ったのは、年末年始のバタバタの最中だった。あけましておめでとうの挨拶を交わした三女との電話で、わたしはまるで伝言ゲームみたいな股聞きで、その事実を知らされたのだった。
正直、あまり驚かなかった。これまで母には、本当に様々なことで度肝を抜かれてきたから、おお、今度はそう来たか! というような気分だった。
じつはその数ヶ月前から、娘四人と母との間には、あるトラブルによって、それなりに深刻な溝ができていて(とはいえ、こういう溝はこれまでも何度も生まれては、うやむやなうちに修復されるというのを繰り返してきたのだが)、しばらくわたしも母と連絡を取っておらず、それゆえに母の病状を知るのが遅れたというのがあった。
事実を知ったからには知らないふりをしているわけにもいかず、数ヶ月ぶりに母に電話をした。
「お母さん、久しぶり。病気のこと聞いたよ……大丈夫?」
そんなふうにわたしがたずねると、母の声は、かすかに決まり悪そうな笑みを交えつつ、
「大丈夫よ、大丈夫。わざわざ悪いわね、電話もらって」
いかにもたいしたことではないと言いたげに答えたのだったか。
元日に帰省していなかったので、次の週末、成人の日の祝日を使って一度帰ろうかと提案したが、来るな来るなと母に拒まれ、けっきょくわたしがようやく実家に帰ったのは、三月になってからだった。
その時に会った母はというと、とても病人とは思えないほど血色がよく、実際に元気で、せっかく娘が孫を連れて帰省したというのに、用事があるからと神戸に一人で出かけてしまうほど活動的だった。
母の病状は、見つかった時にはもう手の施しようがないほどで、それでも効果的な治療法を主治医に提案してもらっていたが、当人は積極的に受けようとはしないでいた。
寿命を真摯に受け止めていたのではない。根拠なく現代医療にたいして不信感を持っており、高額なサプリメントなどを買って自分なりに治そうとしていたのだ。
医師である次女の話などもまともに聞こうとせず、〝ものすごい乳酸菌〟だとか〝どんな病気も治すヨード系の液体〟などを、せっせと飲んでいる母を見ながら、違う違う、そうじゃ、そうじゃない! というツッコミを飲み込んで、とにかくこの人の好きにさせてやろうと見守ることにした。変わり者の母に何を言っても無駄だと、これまでの人生で、嫌というほど理解している。
終末期医療に従事しており、日々看取りの現場に立ち会っている姉の見立てでは、母の病状は驚くほど早く進行しそうで、想像しているよりもずっと残された時間は短いだろうということだった。自分の病識を理解しているとは思えないほど陽気な母に、願わくば最期まで明るいままでいてほしかったという気持ちもあった。乳酸菌やヨード系の液体がいかにすごいかと嬉々として語る母に、へえ、すごいね、そんなものがあるんやね、と相槌を打っていると、そのサプリメントの信ぴょう性などどうでもよくなって、心が凪いでいく感じがした。
こうして母娘で向かい合っている今を、この後の人生で何度も思い出すかもしれない。
だから、脳裏に焼き付けておこう。そんなふうに思った。
実際、母は最期まで、本当に陽気で前向きだった。
次女いわく「病的なまでに明るい」とはよく言ったもので、これまで常軌を逸した楽天家ゆえに問題を引き起こしてきたところがあったが、その陽気さが最期まで保たれたことは、残された家族にとって幸せなことだったと感謝している。
亡くなる数日前まで、起き上がることもできない容態だというのに、「わたし、死なないから大丈夫よ」と言っていたというのだから。虚勢を張っているのでもなく、心からそう信じているようで、それを証拠づけるものが、母の部屋から見つかった。
「あっ、これやわ」
長女が持ってきたのは、母のベッドの枕元にあったピラミッド型のオブジェみたいなものだった。およそ一〇センチほどの四角錐で、真鍮のような金属でできており、エジプトの壁画を模倣した横顔の人物たちが彫られている。上の部分がパカッと開く構造になっていて、中には小さく四つ折りにされたメモがいくつかしまわれていた。
「何なの、これは」
いぶかしげに私は眉をひそめた。
「この中に願い事を入れておくと叶うんだって、お母さん、通販で買ってたよ」
ほほう、いかにも。母の心を掴みそうな一品である。
ということは、この四つ折りになったものは、母の願い事ということか。
わたしと姉はしばらく見つめ合ってから、
「見てみよう」
とほぼ同時に頷き合い、それらを開いてみた。
深刻な病におかされていたのだから、その治癒を願うものが出てくるのだろうと予想したら。
『ラーの大神さま 携帯電話が見つかりました! ありがとうございます!』
『ラーの大神さま ○○氏の記事が、アメリカの◯◯誌に掲載されました! 心より感謝いたします!』
おそらく、すでに願い事が叶ったという体裁で書く決まりでもあったのだろう、と推測。
つまり、母は失くした携帯電話が見つかってほしいことや、わたしは知らない◯◯氏の記事がアメリカの雑誌に掲載されてほしいとラーの大神にお願いしていたわけだ。
こんなことをお願いされたって、エジプトの太陽神も困惑すると思うが……。
そしてたった一枚も、病気にかんする願い事はなかったのだった。
なるほど、あの母のことだ、ラーの大神にお願いするまでもなく、自分の病気は治ると信じていたのだろう……根拠もなく、楽観的に。
「わたし、死なないから大丈夫よ」と断言していた母の陶然とした顔も、それなら理解できた。
それにしたって母はかつて、「この世の真理を知りたい」という、訳がわかるようなわからないような理由で新興宗教にどっぷりとはまっていた時期があるのだ。それも一つに傾倒するのではなく、◯◯会というのに熱を上げていたと思ったら、あっさり冷めて、今度は◯◯メイトに熱狂して、そうかと思ったらそれも止めて、二つ、三つの新興宗教をかけ持ちしはじめたり。そんな母に娘たちも振り回されるわけで、わたしも朝の五時に起こされて千日前にあるマンションの一室で般若心経を唱える会合に出席させられたりしたものだった。
わたしの武道館デビューは、憧れのアーティストのコンサートではなく、巨額詐欺事件で世間を騒がせた新興宗教の大集会だった。韓流スターに恋する乙女のように目を輝かせて、ステージ上の教祖さまを見つめている母の横顔を、わたしは今でも鮮やかに思い出すことができる。
最高ですか? サイコーでーす! ってさー、ぜんっぜん、最高じゃないし! どんどん衰弱していきながらも自分は死なないと思い込んでいる母を眺めながら、まったく、いったい何のための宗教だったんだか! と悪態をつきたい気持ちにならないこともなかった。
しかし、それでも本当に最期の最期で、母はちゃんと自分が死にゆくことを受け入れられたのではないかと、わたしは思っている。おそらく、昏睡状態に入ったあたり、さすがにこりゃダメだ、と理解できたのではないか。
手に負えないほど頑固なのに、ひとたび心変わりするとおそろしいまでに変わり身が早い人だったから、そんな気がしている。
というのも、母が亡くなったタイミングは、忙しい娘たちのスケジュール帳を見て決めたかのようだったからだ。
じつは母が亡くなる前日に、わたしが脚本を担当したドラマ『コートダジュールNo.10』の試写会があったのだが、数日前から母の意識はなくなっていたので、状況によってはそちらを欠席せざるを得ないだろうと考えていた。
はじめて任せてもらったテレビドラマの脚本だったので、仕事を完遂するという意味でも、できれば出席したい。が、そんなことを言っていられない状況でもあった。
しかし母は危篤でありながらも安定していて、綱渡りのように一日、一日がすぎていき、なんとか試写会の日を迎えることができたのだった。
母はそのドラマが完成するのを心待ちにしてくれていたので、母の指輪をつけていった。赤と緑の石がついたゴールドの指輪は、わたしには少し派手な気がしてあまりつけることがなかったが、久しぶりにはめてみると、わたしの左の薬指にちょうどよくおさまった。
一話三十分、九本の連続ドラマだ。五時間近い上映時間さえあっという間に感じられるほど、素晴らしいものに仕上がっていた。観る者を心地よいせせらぎに誘うような、そういう作品だった。
監督はじめ、役者さんたち、音楽……その世界にある光景のすみずみに、たくさんのプロフェッショナルな愛情が注がれた、幸福としかいいようのないドラマになっていた。
わたしが担当したのは九本のうち五本の物語だが、携わることのできた我が身の幸せを噛み締め、こういう機会を与えていただいたことにひたすら感謝する一日となった。
その翌日の午前中に、わたしは二人の子供を連れて母のもとへと急いだ。東京駅でお弁当を買おうと思っていたが、子供たちがパンを食べたいと言うので、東京駅の地下のベーカリーで昼食を調達することにした。お盆をすぎて間もない夏休み、人で溢れかえっており、わたしは店の隅っこにスーツケースと子供たちを避難させて慌ただしくパンを選んでいたらスマートフォンが震えた。
次女からだった。
「たった今ね、お母さんのもとにいた看護師さんから呼吸停止の連絡が来たよ」
姉の声は、静かで穏やかだった。
呼吸停止ということは……そうか、そういうことか。
「わたし、もうすぐ新幹線に乗る」
「ああ、そう。でも急いだところでしょうがないから、ゆっくりおいで」
「わかった」
姉からの電話を切った後、一瞬ぼんやりしそうになったが、知らない人に押されて現実に引き戻された。今は子供たちが食べるパンを買わないと。
ソーセージパンと、チョココロネと、クリームパン、サンドイッチ……。
子供にリクエストされたものを思い浮かべつつ買い込んでレジへと急いだ。姉にはゆっくりおいでと言われながらも、ほとんど駆けるようにして、一番早くに出発するのぞみに飛び乗った。
すぐに動き出した新幹線の中で、お腹が減ったという子供たちにパンを配り、ようやく一息ついて窓外に目を移した。
ああ……間に合わなかったなぁ。
ものすごいスピードで流れていく景色を見ながらそう思ったら、張り詰めていた全身の力が抜けた。
でも、お母さん、わたしを試写会を行かせてくれたのね。
一緒に観ていたのかしらね。
わたしたち娘に迷惑をかけることをひどく嫌がる孤高な人でありながら、しかしそれとは裏腹に、とてつもない厄介ごとを持ちち込んでくるところが母という人の矛盾だったが、最期は、彼女らしい気遣いを発揮してくれたように思った。
読書家だった母の棺には、いくつかの愛用品とともに、わたしの著書とタロット占いの本も入れた。旅路のお供になればと考えたが、あのせっかちな母だから、本など読む暇もなくぶっ飛ばしているような気がしないでもない。
生前、自分はいつかの前世でシリウス星にいたことがあると信じてたから、重たい肉体から解放された今、宇宙を光速で突き進み、里帰りするべくシリウス星に向かっているんじゃないか。
あの異常なまでの明るさも、マイナス一等星のシリウス由来だと考えれば納得できるもの。
お母さん、どうか道に迷わないように。
気をつけて。ボン ヴォヤージュ。
【学生時代の母(右側)】
(8月のエッセイはこちらです!)
(姉、尾崎容子著『それでも病院で死にますか』は在宅医療のすすめとして、わかりやすくまとめられています)
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