食事は足し算。
ちょうど5年前。
大学1年生、知り合いのいない土地で念願の一人暮らしを始めた。
そして一人暮らし大学生が誰しもが通る道と言えば、やはり自炊である。
もちろん私も、自炊にドはまりした。バイト先が飲食店だったことも拍車をかけたのか、毎日毎日料理をした。様々な種類の調理器具や調味料を無駄に買い、自分の勘だけで作るなんてことが当たり前になってきた日、この言葉に出会う。
「料理は引き算である」
それまで当たり前のように作っていた料理も、少しの引き算で劇的に味が変わったりもした。たどり着くまでが複雑だが、どこかに正解がある。ただしたとえたどり着くことがなくても、自分の中での終着点さえ見つけることができればそれが正解になるのかもしれない。料理と向き合っていた時間は、学生時代の中でもいい経験値になったと思う。
さて去年大学を卒業し、また私は新天地へ飛び、友達も知り合いもいない場所で社会人として新たな生活をスタートさせた。仕事仕事の毎日で料理をする日はかなり減ったが、その分空いた時間は集中して料理ができたし、おいしいものを食べに行ったりもした。
ただどれだけ料理をしていても、美味しいものを食べたとしても、何か満たされない感覚があった。
つい先日、大学院を卒業する先輩の卒業祝いをしに、久しぶりに学生時代を過ごした地に戻った時のこと。特に長い時間を過ごした人たちと食事に行った。たかだか1年ぶりだったが、なんだかすごく久しぶりに会った気がした。その時の食事は今でも思いだすと感情が高ぶるのを感じる。
そこで気が付いた。足りなかったのはおいしい食事でも自分の料理スキルでもなく、誰かと共に食事をすることだと。
考えてみれば、新たな地での社会人生活は、同期も知り合いもおらず行きつけのお店があるわけでもなく、一人の時間が圧倒的に増えていた。仕事も基本一人でプレッシャーや責任感を常に感じるような仕事で、食事の時も含めて、私自身が心のどこかで寂しさや辛さを持っていたのだろう。料理を引き算していた私は、いつの間にか食事も引き算をしてしまっていたのかもしれない。
卒業祝いの場での食事は、それはもうとっておきの時間だった。心の穴がふさがり、満たされる感覚だ。久しぶりに話を弾ませ、社会人になってからの 愚痴であったり、少しづつ考え始める将来のことなど、安心と信頼があるからこそ自分の内側に広がる世界をさらけ出していく事ができるのだった。私自身が求めていたものはこれだと、心から思う。
料理をすること、食事をすること、それぞれに私の中で必要な要素があり、それを言葉にするとすれば
「料理は引き算、食事は足し算」
かもしれない。料理は混ざりっけのないことが必要で、食事は一人じゃなくて、自分が安心できる人とすることが必要なのだと思う。
安心できる旧友との食事は、癒しであり元気を与えてくれる時間であることが私の中で重要なことである。もしかしたら、かけがえのない友人との出会いは、かけがえのない食事との出会いなのかもしれない。あの食事があったからこそ、改めて自分を見つめなおすことができ、また新しい一歩を踏み出そうと考えることができた。諦めていた夢をかなえる一歩を踏み出そうと思う。
これからも同じ人たちで食事に来たいな。
あのかけがえのない時間が、これから先何回も訪れ、回数を重ねても変わらない時間が流れることを、心の底から願っている。